幕張の風

So-netブログ「From Makuhari~幕張の風」から移転しました。 仕事のこと、ニュースのこと、音楽のこと、野球はMarinesと高校野球中心に書きとどめたいことを書いて行こうと思います。

ありがとうございました。

私の母校、習志野高校で野球部エース、そして監督として2回の全国制覇の経験をした石井好博氏が、亡くなりました。

 

hochi.news

石井先生とは、私の習志野高校在校時には1年生で地理を教えていただきましたが、何故か私は授業中に良く「指名」されていました。

 

石井先生は当時授業では野球部の生徒ばかり指名したそうなのですが、たまたま私のクラスには野球部の生徒が少なかったこともあったのでしょう。野球部員の生徒からは「このクラスはお前が良く指されるから助かるよ」なんて言われていましたっけ。

 

石井先生の授業はスピード感があって、時折甲子園での思い出話なども盛り込んで、聞いている生徒に飽きさせることがない内容でした。私自身、ちょっとスリリングな感じもある石井先生の授業は楽しみにしていたので、時間が経つのも早かったように記憶しています。

 

私が3年生の時には、こんなこともありました。体育の授業でソフトボールの試合を行っている時です。

当時はたとえ体育の授業でも、運動系の部活に入っている生徒と、それ以外の生徒では正直「レベルが違う」ので、ソフトボールも試合をやるときには運動系の部活の生徒(いわゆる1軍)と、それ以外の生徒と別れて試合をしていました。

私は当然2軍(笑)なのですが、その試合を通りがかりに見かけた石井先生から、私は声をかけられました。

私は打席に入るときは、右利きですが左肘の障害があったので右打席でバットをきちんと振ることが出来ません。そのため体育の授業で行われる試合でも、左打席に入って右腕1本でバットを振り、流し打ちをするということを、しておりました。

 

石井先生から「おい、大西、ちょっと来い」と言われて先生の近くに行きましたが、先生から言われたのが「お前、右利きだろう?なんで左打席に入っているんだ?」と、聞かれたのです。

 

こんなことも気づくんだ、すごいなとは思いましたが、私は自分の左肘の手術の傷跡を見せて「自分は、左腕が動かなくてバットが両腕で触れないので、右腕1本でも振れる左打席に入っています」と、答えました。

 

すると石井先生はちょっと間をおいてから「そうか、残念だな」と、言ってくれたのです。

その言葉の真意が何だったのかは、今では確かめることも出来ませんが、私は野球も音楽も諦めることになったこの左肘の障害で、悔しい思いしかしたことはありませんが、この先生の一言は、本当に救われたのです。

 

右腕1本でも器用に流し打ちでヒットを打ったこともあったのかも知れませんが、これだけ「野球」を極めている方から、「残念」だと言ってもらえたことが、嬉しかったのです。

 

石井先生とは、その後幕張メッセのホテルで行われた習志野高校の50周年記念の式典でお会いしたきりでした。

亡くなられた年齢は、今で言えばちょっと早めかも知れません。もしかしたらこのコロナ禍でのワクチン接種なども悪い影響を与えた可能性も否定できません。

機会があったら、また石井先生にご挨拶できれば・・・・などとも考えていましたが、もう叶わぬ夢になってしまいました。

 

謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

石井先生、本当にありがとうございました。

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フィールド・オブ・ドリームス。

公開された1989年に、私にしては珍しく劇場で鑑賞した映画。観終わった後に、不思議にこみ上げてくるものを感じ、目に涙を溜めてしまったことを覚えていたので、機会があればまた観よう・・・と言うのは往々にして中々観ないもの。

 

何故か今日は公休2日目で、前日に予定をすべてこなしてしまったこともあって、これを観ることにしました。

https://www.amazon.co.jp/gp/video/detail/B00I7LQKL2/ref=atv_dp_share_cu_r

 

公開時の20代では理解出来なかった主人公の心の機微が、私でもようやく理解できるようになったようで、観終わった心の思いは、公開時とはずいぶん違ったものになりました。

 

・・・偶々でしょうが、この映画を観終えて、実父の訃報がありました。

このブログでも再三触れましたが、私の実父への思いはどちらかと言うと恨みに近いものがありました。

妻にも良く言っていたのは、「俺は親父が死んでも涙の一滴も出ないと思う」でした。

 

本当に一滴も出なかったので、かえって妻が驚いていました。

正直、”憑き物が落ちた”感覚です。

私にとって父は、自らの欲望の為に私に一生の障害を負わせた人であり、兄弟でありながら弟と明確な差別をして実家へ入れようとしなかった人であり、私の大学時代には単身赴任中に母以外の女に入れ込んで全くお金を家に入れなくなって学費と生活費を稼ぐために働き通しにさせた張本人であり、私が息子の実の母と離婚協議に入った際に間違って息子を実家に預けたばかりに、息子をひどい目に遭わせた元凶でもあるのです。

 

ですから、私自身訃報に接する前は自分の感情がどのように動くのか不安でした。怒りの感情で涙が出ないことは予想出来ましたが、おそらく嵐のように押し寄せるであろう恨みや憎しみの感情で、我を失ってしまうのではないかと言うことを、恐れていたのです。

 

でも、その一報を聞いた私は、至って冷静でした。むしろ心が凪になったとでも言いましょうか、ものすごく気持ちが落ち着いたのです。

 

私は、万一父より自分が先に死んでしまったら、父の近くに居る弟の企みなどで、残された妻や息子に迷惑が及んでしまうことを、一番恐れていました。その不安が無くなったことが、私の気持ちがとても安らいだものになった理由でしょう。

 

本当は、生きているうちに父を問い質し、何故私の身体に障害を生じさせるような無責任なこととしたのか、何故私に対し理不尽な差別をしたのか、父の本心を聞きたかった。

 

でも、それも昨年父から車椅子の無心を受けた時に、既に父に痴呆が始まっていてまともに話せる相手ではなくなっていることを知り、その時点で諦めてしまっていたので、今更訃報に接しても、新しく感情が沸き上がることはありませんでした。

 

本当に、心穏やかに接することが出来たのは、この映画を観ていたからかも知れません。

映画の主人公のように、私は父を拒んでいた訳ではありませんし、むしろ子供の頃は尊敬すらしていました。

自分が親になって初めて、父の嫌な部分、怒りが私の心を支配するように、なっていました。

今日で、その恨みの対象が亡くなってしまったことで、私自身、自分の本当の生まれてきた意味を、見つめ直してみたいと、思います。

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空猫アラベラ。

前エントリーでユニの「妹」をお迎えする・・・とお伝えしました。

この事を中学からの同級生に伝えたら、この本を読んでみることを勧められました。

keytail.shop-pro.jp

何故この絵本を勧められたかは、読んでみてすぐ分かりました。
猫天国に上ってしまった猫、アラベラ。飼い主のおばさんに会いたくて人間や他の動物の居る地上に降りて来ます。

「死後の世界」を信じる、信じないはあるでしょうが、私は「ある」と思うのです。というか、今の生きている世界も色々な空間の一部に過ぎないんじゃないかって、考えてしまうのです。

 

とは言え、「死んで」しまってこの世の中に身体が無くなれば見ることも触れることも出来ません。それでも、ユニも、4年前に亡くなった母も、私には時折その「存在」を感じることが、あります。

 

身体の生死は、この世の肉体の事であって、その思いまで無くなる訳ではないんですよね。

もしかしたらユニも、アラベラのように私の所に行っても良いと言ってくれた猫を、探してくれたのかも知れないなって、この絵本を読んで感じました。

 

猫を飼っている方で、お見送りを経験した方なら本当にお勧めです。

出版社は「本作りSola」。

solabook.com

2004年の会社ですので新しいところですね。

「空猫アラベラ」はヒット作のようで、ホームページにもリンクが随所にあります。

原作の初版は1965年と言いますから、私とそんなに年齢が変わりません。

そんな年月を感じさせない、軽いけれど美しい挿絵と、どんな時代にも変わらない人と猫との思いを描いた作品は、少しでも「動物を飼いたい」と思った方であれば、心に温かい風を吹かせてくれると、思います。

あなたも、宇宙カゴに乗って、会いに行ってみませんか?

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随分と。

長い間、エントリーしていませんでした。

ネットでの投稿も、私がブログを始めた2005年くらいではブログくらいしか方法がありませんでしたが、今ではTwitterもあればFacebook,Instagram、果てはYouTubeなども利用可能です。

私自身は最近は安易なFacebookでのエントリーに流れがちで、興味のある記事の共有ボタンを押してリンクさせた後、若干のコメントを記すだけで自己満足してしまうんですよね。

 

そんな感じで簡単なFacebookでは誰が読んでくれるとも知れないエントリーは垂れ流しておりますが、ブログは放置。

 

ブログも、今ではオワコン感満載ではあるんですよね。以前ほどアクセスはありませんし、何よりネット上に溢れる情報の波の中では、自分のエントリーなんてたかが知れていますからね。

 

気付いたら2023年になって、初のエントリーですね。

 

身体の状態も事故の後遺症は良くなる兆しもなく、仕事も休みなくと言う訳には行っていません。それでもまあ、このインチキコロナ禍で激変した社会の中でも、私一人の収入で夫婦が一応人並みに食えているので良しとすべきなんでしょうね。

 

諸々の事情でエントリーが激減していたブログですが、その最大の原因はやはり愛猫ユニの死でしょう。

これは、自分で思っているよりダメージが大きかったようです。一応分別のある大人ではあるので、人前で泣きじゃくってボロボロにはなっていませんが、ユニがこの世を去ってもう9か月になろうとしているのに、時折自分の正体を失ってしまっているような時間が、まだまだあります。

 

でも、ユニが今の私を見たらどう思うのかなとも考えるように、なって来ました。

ユニは、控えめで他の猫が出てくると引っ込んでしまうような子。ですから、うちでは他の子を受け入れることはしませんでした。ユニがしたいように出来る環境を壊したくなかったからです。

他に猫が居なければ、ユニは自分の意思を通してくれます。甘えたいときに甘え、行きたいところに行き、寝たいときに寝て、座りたいところに座ります。

 

でも、そんなユニでも他の猫は好きなんですよね。うちのベランダに時折野良ちゃんがやってくると、ユニは一生懸命にお話をしました。誰かと一緒に居たがっているようにも、思えました。

それでも、他の猫が居ればすべてその猫に自分の場所を譲ってしまうような引っ込み思案なのがユニでしたから、私はユニの他の猫をうちで受け入れることはしませんでした。

 

でも、もうそのユニは居ません。

 

ユニの声が聞こえたような、気がするんです。

「私は今は居ないんだから、他の子を私と同じように、してあげて」

 

他の猫でも、ユニと同じキジトラはダメです。私は同じキジトラだったら、人間が出来て居ませんから必ずすべてをユニと比べてしまうに違いないのです。

 

保護主さん家庭に居て、長くご縁の見つからない子。

保護猫とは言っても、迎える側に評判が良いのはやはり子猫で愛想の良い子。

でもね、猫だって人間と一緒です。取っつきにくくたって、心の中は暖かい気持ちでいっぱいです。ちょっと臆病で愛情表現が下手で、不器用な猫だってたくさん居ます。でもそんな子でも、内心は愛されたい、受け入れられたい、安心したいって思っているんですよ。

 

時間をかけて分かり合えば、心を開いてくれます。そうしたらどんな猫だって、唯一無二の家族になってくれます。

 

これから、「ユニの妹」をお迎えしたいと思います。

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明日の風は

気が付いたら
多くの時間が過ぎ去って
 
見えてはいても
知らないふりで自分の老いに目を逸らしていた
 
ちょっと前にあれこれしたいと思っていたことすら
埃塗れの汚れた箱の隅っこで置き去りのまま
 
髭を剃るのに鏡を見ても
見える皺だらけの爺は誰だなんて
考えることも忘れて
流れる時間に追い縋っているだけの自分
 
それでもね
これまでに手を抜いたことはないんだよ
間違っていたかも知れないけれど
その時の全力を尽くし
これでダメなら自分がダメ
それまでの奴なんだと思って
前だけ向いてやってきた
 
明日はどんな風が吹くんだろう
そんなの明日にならなきゃ分からない
それでも明日はやってくる
自分に吹く風なんてたかが知れてるが
吹いた分は自分で
次を決めようか
 
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すずめ。

先月21日、ユニが虹の橋を渡ってしまいました。

17日早朝、私が明け番でお風呂を済ませ、マッサージチェアで微睡んでいる時に、ユニの具合が急変しました。突然大きな鳴き声を上げながら、前足だけで部屋中を狂ったように駆け回り、その後痙攣して倒れてしまったのです。

 

経過はともかく、亡くなってしまったものはどうすることも出来ません。

 

ユニの死に直面し思い知らされたのは、ユニをうちに迎えた時に気になっていた、私自身の「心の弱さ」です。

動物を家族として受け入れた時に避けられないのがその死です。動物は人間よりは長くは生きられません。家族を迎え入れるということは、その死についても大きな責任を持つということだと私は考えています。

しかし、私は小学校2年生の時にこんな経験をしていました。これをきっかけに父には「お前には動物を飼う資格はない!」と、この後すべての「ペット」を飼うことを禁じられたのです。

その経緯を、お話したいと思います。

 

昭和45年の春先、当時住んでいた静岡県引佐郡細江町(現在は浜松市)の自衛隊官舎のベランダに、1羽の雀の雛が落ちて来ました。

雀は、その身体の小ささから、子供が巣から落ちてしまえば、救い出すことは不可能です。

このまま放置すれば死んでしまうし、巣に戻せば親鳥はその巣の雛をすべて放置してしまう・・・図書館で雀の生態を調べるとそんなことが分かりましたので、どこまで出来るかは分かりませんが、この雛を出来るだけ育てよう・・・私はそう決心して、うちの中でこの雛の世話を始めます。

 

今であればネットで検索して情報が簡単に手に入りますが、この当時は専門的知識は詳しい人に聞くか、自分で図書館で調べるしかありません。

私は学校の先生に尋ねたり、父に聞いたり、図書館で鳥の生態について調べたりしながら、ひな鳥の時は何を食べさせたら良いか、排せつ物の処理はどうやったら良いかなど、疑問に思うことが出来る都度調べたことを書き記したノートを確認しました。

 

雛の頃には植物性の稗や粟などをすりつぶしたものを水などで捏ねて、割り箸の先で与えたりしました。

ちょっと成長すると、「生餌」が必要だと知り、まずはハエや蚊をまだ生きた状態で捕まえてくちばしの前に出して与えたりしました。

 

段ボール箱で作った巣では、排泄物を割り箸でつまみ出して掃除をしたり、新聞紙を細かくちぎった敷物は1日数回交換しました。

 

雛はやがて成長し、室内を飛び回れるくらいにまで大きくなりました。

 

雀は成鳥になるまで、おおよそ2週間なのですね。

雀は警戒心の強い鳥ですから、人間には普通は近づきません。しかし私の育てた雛は私を親鳥と思っているらしく、私の肩に乗ったりすり寄って来たり、手を出せば手乗り文鳥のように手の上に乗って来ました。

両手で指を交互に差し出せば、そこに順番に飛び移ってくれるようになっていました。

 

お別れは突然でした。

 

いつものように、夜おやすみなさいと言って段ボールの巣に寝かせた雛は、朝、冷たくなって横たわっていました。

 

餌やりもお世話も、私なりには一生懸命やったのですが、やはり自然の事とは違って、何かが足らなかったのでしょう。

 

私は、亡くなった雛を抱えて号泣しました。その日は、学校へ行くこともままなりませんでした。

 

その日の夕方、帰宅した父に連れられて、近くの川の土手の木の下へ、雛のお墓を作りました。

 

その日から3日間、私は泣いてばかりで、翌日学校へはいったものの、給食も食べず帰宅してもご飯も食べずという状態が続きました。

夕食の食卓前で泣きじゃくる私に投げつけた父の言葉が、「お前には動物を飼う資格はない!」だったのです。

 

この時と今と、私は基本的に成長はしていないようです。

ただ、食事は摂れるようになったことは進歩でしょうか?しかし今日これをエントリーしている日の仕事は、ユニが亡くなってしまった影響でしょう、睡眠が全くとれない状況で体調不良を起こしてしまって休んでしまっています。

 

ユニとは、この時の雀の雛とは段違いの、心の暖かくなる時間を過ごして来ました。

悲しんでばかりいてもユニは喜ばないのは分かってはいます。それでも押し寄せてくる寂しさに対しては、私はまだ克服出来る術を持たないようです。

 

しかし、雀の雛の時もそうだったように、時間がやがて解決してくれるんだと、思います。

解決してくれるのは、悲しさの処理であって、ユニを大切に思う気持ちは、ずっと変わりませんが。

 

 

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あなたが

柔らかな風を運んでくれた
暖かい 優しい風
頬を寄せると
見つめる眼差しは信頼の証

 

いつも話の真ん中で
澄んだ瞳でみんなを見ていた

いつの間にか 心の中の当たり前だった

 

待って居てくれる家路は
心が満ち足りていた

失われたものは無いと
分かっていても
目に映らぬ悲しみは深い

それでも身体の芯に残っている
あなたのぬくもり


昨日と明日と今と
境目を心が彷徨っても
あなたはここに
居てくれる

ありがとう ユニ

 

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果物会社(笑)。

このブログにアクセスなさった貴方、まさか「果物会社」の愛用者じゃないでしょうね?(笑)

 

jp.wsj.com

日本人はこの果物会社の製品は大好きで、機能やデザインが先進的だとか完全に洗脳されていますが、果物会社の本質はペテンで満ち溢れたものなんですよ。

(詳細は私のブログの過去記事をご覧ください。左側の検索ウインドウに、果物会社の社名をアルファベットで入力して検索いただけると素早くご覧いただけます)

 

この果物会社は、自社の名前を取引先に出そうものなら、「お前の会社は当社の名前で自社の仕事を優位に進めようとしている」と必ず言い出します。千葉県にある夢の国の会社のようですね。あの夢の国も、社名を出すと「使用料」を請求出来るようになるまで訴訟を起こされますので、どの会社でもその会社のテーマパークのチケットをプレゼントするときは、「有名テーマパークの入場チケットをプレゼント!!」などと、奥歯に何か挟まっているような表現を強要されます。

 

もちろん果物会社も同様で、自社の製品を告知するのに社名を出すというだけでも「裁判」を起こしてしまう陰険な会社ですから、可哀そうにその会社の製品の告知をする為であるのに社名を出せずに「話題のスマホなんて表現しか出来なくなっています。

 

この果物会社、まさかほんとに「先進的」だなんて思っていないですよね?

この会社のビジネスモデルはThe Beatlesの作った会社「Apple Corp.」のコンセプトそのものですし、製品のデザインは元々ソニーの旧型のそれを倣って作ったものが大半。(事例は過去記事にあります)まあ、創業者がペテン師ですから仕方ないですけれどね。

 

でも、こういう体質ってアメリカそのものです。事あるごとに「グローバル」を強調し、でもその実は自分達の都合を「世界標準」だとして押し付けて来ます。

こういう連中の横暴に、この会社の製品は使わない!とかNOをはっきり言えるようになるようにならないと、自立した人間にはなれないでしょうね。

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何でしょうね。

コロナだ、ウクライナだと騒がしい世の中でスルーされてしまいそうな話題ですが・・・。

東京と大阪で、ほぼ同時に魚の大量死が発生しています。

魚の種類も同じ、しかしどちらも有害な物質は発見されていないし、水中の酸素濃度にも問題はないとの発表はありましたが、何だか不気味ですね。

 

youtu.be

 

 

youtu.be

地震の前兆ではないと良いのですが。

 

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ご苦労様です。

アメリカ・アップル社のどなたかは存じませんが、年末年始のお忙しい時期にも関わらず、こんな個人ブログを閲覧いただきありがとうございます。

残念ながら、あなたの期待なさっているような内容は、一切エントリーしておりません。

アップル社の批判はしても、その知的所有権に触れるような内容をエントリーしてしまうほど、私は素人ではありません。アップル社に業務上散々翻弄されて来ました故、アップル社の考え方ややってくることについてはほぼ推測出来ますので、自ら墓穴を掘るような内容を公的に明らかにすることの不利は重々承知しております。

 

ただ、こんなブログでももう15年以上続けておりますので、そちら様がすべてのエントリーを確認なさるのはいくらお仕事でも大変なことであろうと拝察いたします。

ですので無駄なお手間をおかけしませんよう、老婆心ながらあらかじめお知らせしておきます。

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追突。

2021年、多くの方がコロナの影響で生活が激変してしまったであろうこの年ですが、私はそんなことより6月25日に起きたこの事で、生活が完全に狂ってしまいました。

 

makuhari-windy.hatenablog.com

JR船橋駅で同僚を降ろしてもうちょっとで自宅に着くという、国道357号線の検見川神社入口交差点で信号待ちで停車していたところ、後続車に追突されました。

 

加害者は居眠り運転でした。

 

信号待ちでルームミラーに目をやった私は、まったく減速しない後続の白色の軽ワゴン車が迫って来る姿を目にして「ヤバイ、ぶつかる。こんなスピードじゃまずい」と思いましたがもうどうすることも出来ず、そのままその軽ワゴン車は私のクルマに追突しました。

 

猛スピードで”タックル”された私のクルマは、どうしてそういう動きをしたのかは全く記憶にはないのですが、追突で受けた衝撃で前進はしたものの、無意識のうちにハンドルを切って、たまたま空いていた第2車線を進み私の前に停車していたクルマへの追突を避け、中央の緑地帯に前輪をぶつけて停車しました。

 

ぶつかる直前は、死を覚悟しました。

頭の中に妻の顔が真っ先に浮かびました。いつものように、明けで帰宅する私の為に朝食の準備をしているでしょう。このまま私がこの世を去ってしまったら、どうやって妻にこの状況を伝えようか・・・そんな事を思い描いて、追突の衝撃を受ける前のほんの数秒間はそれが私の頭の中を支配していました。

 

ぶつかった衝撃は相当なものでしたが、奇跡的に私は頭部も胸部もハンドルに強打することもなく、事故直後は意識ははっきりしておりました。普段から信号待ち停車時には常に前車との車間距離を2メートルは空ける習慣が役立ったのと、たまたま第2車線が空いていた幸運もあり、無意識のうちですが右へハンドルを切って前のクルマにさらに追突することを避けたので、結果的に私の身体への衝撃を和らげる結果につながったようです。

 

また、子供の頃にやっていた柔道で鍛えた身体も、役立ったのでしょう。自分のクルマの後部座席がほとんど潰れてしまった状況でも、ハンドルには頭部も胸部もぶつけることはなく、両手と首の周りの筋肉を硬直させることで、運転中と変わらないそのままの姿勢を衝突後にも維持出来ておりました。

 

クルマが停止してから、まずは妻に今の状況を伝えなければ・・・と思い、警察にも救急にも発信する前に、妻に電話をしました。

 

「もうちょっとで家に着くところで、追突された。これから病院に救急車で運ばれると思うけれど、大丈夫だから心配しないで」

 

妻にはこれだけ伝えて、電話を切り、その後救急へ電話しました。

その時に加害者の方が私に声をかけて来ました。

 

「大丈夫ですか?申し訳ありません。」

 

私は心からストレートに言葉が出てしまいました。

 

「大丈夫な訳ないでしょう?今、救急に電話しました」

加害者の方は「私は警察に連絡します」と言って自分のクルマのほうへ移動したようですが、私はそのあとちょっと意識が混濁したようで、この前後の記憶があまりありません。

 

救急車が着くまで、そんなに時間はかからなかったと思います。でも、この道路、早朝でも幹線なので大型車をはじめ多くのクルマが通ります。

後部が大破して動けない私のクルマに、邪魔だ、どけ!とばかりにクラクションをけたたましく鳴らしながら何台もの大型車が、動けなくなって第二車線に停まっている私のクルマを回避しながら通過して行きます。

大型車のマナーって、最近本当に悪いですね。私が今の仕事(タクシードライバー)に就いた2014年頃はこんなに酷くなかったはずです。

ラクション鳴らされたって、後部が大破したらクルマは動かせません。それにこっちは被害者ですよ?ただ信号待ちで停車していたところに、後続車が居眠りしていて突っ込まれただけなのに、何台もの大型車にけたたましく鳴らされるクラクションには、本当に腹が立ちました。

「ふざけんな、お前が追突されたらこんなことされてどう思うんだ!」

そんな想像力も欠けた人が多数を占めるようになった現実を突きつけられたようで、事故後の衝撃で動かない身体が余計に重く感じられました。

 

救急車はすぐに来たものの、私を受け入れる病院が中々見つかりません。到着した救急隊の方に私は体温をすぐに測定されましたが、38度以上の発熱があり、救急隊が受け入れ先を探し問い合わせをしても、発熱した患者は受け入れ出来ないということなのか体温を救急隊が伝えると即座に受け入れ拒否をされているようでした。

でも、これってどうなんでしょうね?事故の後だと伝えているのに、発熱で受け入れ拒否って、おかしくありませんか?私はその時、こんな状況で受け入れ先が見つからずに、亡くなってしまった方も多くいらっしゃるんじゃないかと、そんなことを考えてしまいました。

 

そんな中でもある病院が私の受け入れにOKを出してくれましたが、そこは私にとっては絶対に行けない病院でした。母校・習志野の後輩が麻酔ミスで亡くなってしまった習志野第一病院。この件で昭和60年夏の甲子園は、母校は甲子園への途を絶たれたのです。そこにはどんなことがあっても行きたくはありません。救急隊の方に「そこだけは行きたくない」と告げて、改めて受け入れ先を探しました。

 

そこで私は、以前に右手人差し指をミキサーでカットしてしまった時に搬送された病院を思い出し、そこの病院を提案すると、受け入れ可との返答がありました。

何とか搬送先が決まり、その病院でCTスキャンまで行い、脳や神経系に重篤な損傷はないことは、確認出来ました。でもここは、初期治療はやってくれますが、命に係わる重傷でない限りは、その後は入院させてくれないんですよね。CTで神経系に重大な損傷もなく、また大きな外傷もないことから、私はそのままいったん帰宅して、改めて他の病院で治療を受けるように、指示されました。

 

救急隊から連絡を受けた妻が、すべての検査を終えた私を待合室で待っていてくれました。

こういう事態で、誰かが待っていてくれる・・・こんなに嬉しいことはありませんね。

私は妻とタクシーで自宅へ帰りました。

とりあえずは死ぬこと無く自宅に帰ったことが、一番の幸せでした。早朝の事故だったので、こんなに色々あった割には、帰宅した時はまだ午前10時を回ったところでした。

 

その後は、治療の為の病院探しです。この日は金曜日でしたが、大きな病院であればほとんどは午前中で診療は終わってしまいます。

警察の方からは、「加害者は任意保険に加入しています。加害者が連絡を取れば加害者の保険会社から連絡が入りますので、それを待って下さい」と言われましたが、午後1時を過ぎても一向に保険会社から連絡がありません。私は再度警察署の事故担当へ電話し、担当の巡査部長からは「それでは私から連絡をします」と言われ、すぐにその巡査部長から折り返し電話が入りますが、「加害者に電話が繋がりませんので、また改めて連絡してみます」とのことでした。

 

その時点でもう午後2時を回っています。今日は金曜日なので週末にかかれば来週の月曜日まで治療を受けることが出来なくなってしまいます。私は警官から聞いた加害者の携帯へ直接連絡しました。

 

なんと、加害者はエアバッグの効果もあり無傷。自分の仕事先で事故報告を終えて仕事に戻っていたのです。自分の加入する保険会社に電話で事故発生連絡をするだけの事を、事故発生から6時間以上経ってもしていないという無責任さに、愕然としました。自分が居眠りで追突して他人のクルマを潰し、その人が救急車で運ばれたのに自分は日常に戻って平気なのか?と、強烈な怒りがこみ上げて来ました。

「あなたが保険会社に連絡をしなければ、私は治療を受けることが出来ないのです。それを分かっていて連絡をしていないのですか?」と加害者に問い詰めました。

「分かりました、連絡します」とだけ言って、電話を切られましたが、一切お詫びの言葉はありません。

電話を切って20分ほど後で、ようやく保険会社から連絡があり、私は自分の「主治医」とも言える現在通院中の病院への通院を希望し、保険会社へ伝えました。

これで、ようやく治療を受けられるようになりました。

クルマは無くなり、また当然運転出来る状態ではないので、病院へはタクシーで向かいました。この病院の医師は、私の左肘の状態も腰のヘルニアの状態も診ていただいていましたので、今回の事故で新たに右足の痺れが生じていることや、両手の握力の著しい低下、そして頸部の可動域の減少は、どの病院よりもちゃんと診ていただけることが、私にとってせめてもの救いでした。

医師からは「事故後ですので週末は安静にして、リハビリは月曜日から始めましょう」と指示され、治療は週明けからとなりました。

 

週明けからリハビリを始めますが、火曜日のリハビリ前に高熱と排尿障害の症状が出てしまいます。私は膀胱炎の既往症があるので、これはまた膀胱炎かな?と思いましたが、とりあえずリハビリ前に医師の診察を受けることにしました。

 

医師の診断は「腎盂腎炎」。抗生物質を処方されますが、解熱するまでこのご時世なのでリハビリは出来なくなってしまいました。それでも、この病院で良かったのは、もし他の病院で治療を始めていたら、発熱という症状だけで保健所へ連絡され、この腎盂腎炎の治療もすぐには受けることが出来なかったと思うのです。内科も整形外科も診てもらえ、しかもいざというときにすぐ対応してもらえるかかりつけの病院があって、非常に助かりました。

 

こんな事故は普通に考えれば「災難」ではあったのでしょうが、コロナで狂った医療の中でも適切な治療を受けることが出来た私は、やっぱり「不幸中の幸い」だったのでしょうね。

 

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家族。

京都での仕事は、私にとって金貸しの世界に入ってからの「上がり」の仕事でした。

能登の実家にも4時間程度で帰ることが出来、当時の妻の実家とも近く関東に特に拘りのない私は、「ここでこれから生活して行くのだな」と考えておりました。

 

ところが、それを許さない事情が家庭内にありました。

当時の妻が、別エントリーでも何度も触れておりますがいわゆるヒステリー持ちのちょっとエキセントリックな人格で、何故か自分の実家に近い京都へ住むことを、異常に嫌がるようになりました。

「お前の仕事のせいでこんなところまで私は連れて来られて、迷惑だ。私はあんたが東京で働いていたから結婚したんだ。こんなところに来たお前と一緒にいる意味なんてないんだ」などと罵られ暴力を振るわれることも日常茶飯事でした。

 

こんな生活は、2年が限界でした。

 

この仕事から離れるのは、本当に辛かったのですが、私には高校大学と、「家族」が崩壊していった苦い経験があるので、自分の家庭を何とか維持したいという気持ちが、勝ってしまったのです。退職し仕事を捨て、妻との生活の継続を優先したのです。

大した仕事のアテもないまま京都を離れましたが、戻る際にはやはり地の利がある千葉の幕張でマンションを借り、しばらくは近くのドン・キホーテで3か月後に社員となる契約のアルバイトで働き始めますが、3か月後に「権利行使」せずに退職し、再び「金貸し」の世界に戻るべく転職活動を始めました。

その時にハローワークで、千葉では大手の消費者金融・パブリックの求人票を目にしました。

この会社は武富士のオーナーの親族が、退社・独立して始めた会社。その社長を慕って武富士の出身者が大挙転籍して管理職の90%が武富士出身者で占められていたところでした。パブリックの方々は、私が貸金業協会時代に法定研修会で講師をやっていたことや、協会の窓口で貸金業の登録事務の受付処理をやっていたことを知ってはいますが、協会の会長とのトラブルは知る由もありません。

ここに入社を希望すると、一も二も無く三顧の礼で迎えていただくこととなりました。

入社当初は、やはり貸金業協会時代に法定研修会で講師をやっていたイメージが強かった為か、貸金業法に関する教育係を命じられ、新入社員に対する集合研修を担当することになりますが、1年経った頃から当時の上司に「君を管理職に引き上げたいのだけれど、今の教育担当では上に空きがない。情報システムへ異動して管理職として会社に貢献して欲しい」とのことで、情報システム部へ異動し、支店長と同等の権限を持つ管理職を拝命しました。

当時のこの会社の情報システム部は、社内システムを支店ごとのスタンドアロンオフコンから、全社で一括して顧客情報を保有・管理する本社集中システムへ入れ替えの作業を行ったところでした。

開発会社は日本ユニシス。この入れ替えたシステムはその後、Microsoftに表彰されるものですが、当時どこもやっていなかったSQL Serverを基幹データベースに使用し、ユーザーのインターフェースをWindowsNTで構築するというもの。

pr.biprogy.com

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当時、雑誌「日経WindowsNT」に、取材を受けました。

今ではユーザーの使う端末はUIも含めWindowsベースで何の不思議もないでしょうが、当時の業務端末でWindowsのUIを使ったものは皆無で、これを基幹系システムに使うというのは、相当に無茶なものでした。

当然のように稼働してから不具合の連続で、顧客データが何回もサーバー上から消失したり、日々の売上を入力し一日の営業成績を集計する「日報」を集計する業務が、新システムの稼働後ほとんど手作業による修正を経ないと数値が合わないという状況が続いており、またその解決策が全く見えない状況でした。

そう、私の管理職への「昇進」は、同時にこの暗礁に乗り上げたシステム開発を何とか正常化し安定稼働させる・・・そんな使命を帯びたものでした。

 

何とかシステムの不具合の原因を1つ1つ消し込んで、正常稼働にこぎつけますが当然のように徹夜・残業が続き在宅時間が短くなってしまい、京都の仕事を「捨てて」まで維持した「家族」に、軋みが生じてしまう結果と、なりました。

 

こんな状況では、通勤時間が30分で短いとは言え仕事を終えて帰宅出来るのが早くて22時前後。そんな私を息子は寝ずに(というより食事も入浴も済んでいないので寝られない)いつも私の帰宅を待っています。

とは言っても妻はパートで都内まで働きに出ているため、朝8時には息子は保育所へ預けられるので無理やりにでも6時過ぎには息子は起きなくてはなりません。

でも、私が帰宅した22時から食事・入浴を私と済ませるような状況では、就寝するのは日付が変わる頃になってしまいます。4~5歳で睡眠時間が6時間なんて、いくら保育所でお昼寝時間があっても、睡眠不足になるに決まっています。当然、風邪もひきやすくなり、その為か息子は扁桃腺が腫れて発熱し入院・・・という状況に、年に何度も陥ってしまうような状態でした。

 

2000年の2月には、それが月に2回もありました。それも私が帰宅すると「パパ、頭痛い」と言って息子がものすごく熱い身体で私に倒れ込み、そのまま私は家に入らず病院へ直行し息子はそのまま入院というような、異常な事態でした。

 

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こんな状況で、身体の火照った息子を抱えながら私は妻に、息子の私の帰宅前の状況を尋ねるのですが妻は「私は悪くない」というばかりで息子が帰ってからどんな様子だったかを、全く説明しないのです。

こんな、普通に考えれば異常な状況がひと月に2回も起こってしまったことで、私は京都の仕事を捨ててまで維持しようとした「家族」を、諦めることにしたのです。

 

私にとって一番大切だった、息子の命を守るために。

 

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京都。

京都は、私と何の縁もゆかりもない土地でした。そこへの転職が決まった経緯は、偶然と必然の絡み合いとでも言いましょうか、何とも言えない出来事の積み重ねの結果でした。
でも私の、今のどん底ともいえる状態への入り口は、紛れもなくこの頃の一連の出来事がきっかけでした。
 
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大学を中退し、色々なアルバイトをしながら卒業した夜間のデザインの専門学校。
 
卒業しても就職なんて当然なくて、アルバイト生活の延長。
 
最初の結婚を機に、住宅営業をやってみますが、ここで事故に遭い腰を痛め働けなくなって、再び食い扶持を探して就活していた時に辿り着いた、金貸しの世界。
 
貸金業法で設立が義務付けられていた、社団法人の千葉県貸金業協会で多重多額債務者の救済更生事業「金融110番」の主任担当者となったことが、「金貸し」の世界への入り口。
それでも、それまでは忌み嫌っていた金融の世界にもその存在価値のあることに気づいてから、この業界を天職と感じていました。
 
そんな私の当時の目標は、今の貸金業協会からあと2回の転職で”上場企業”の社員となって、自分の仕事がより多くの人の生活に、意味のあるものと出来るようにすること・・・でした。
 
貸金業協会から次の仕事への転職は、きっかけは新聞広告でしたがステップアップにはもってこいと思える仕事へのチャンスを手にしました。個人信用情報機関への転職の機会を、掴むことが出来たのです。個人信用情報機関ならば、次のステップ(金融業の上場企業への転身の可能性)も何とか切り拓けると考えましたし。
 
貸金業協会を退職時に、事務局長に伝えた退職理由は、そのまま「個人信用情報の整備を通じて消費者信用産業に貢献したい」でした。
 
しかしこの事務局長には、私の退職には異存はなかったものの、思いっきり後ろ足で砂をかけられました。若い頃の私は怖いもの知らずのお人好し。正しければ何でも通ると思い上がっていましたね。この事務局長はもう年も年であんまり仕事をちゃんとしない人だったので、代わりに相当私が出しゃばってしまったために、この「ここを終の棲家の仕事にしよう」と考えていた事務局長には私はたいそう危険な人物に見えたようで、貸金業協会の最高の実力者である会長に私の「無いこと無いこと」を吹き込まれ、私はこの会長だけには非常に悪いイメージを残して、転職することになってしまったのでした。
 
もちろん、他の貸金業協会の理事の方は私の味方でしたが、この会長を敵に回すと、他の誰も反論出来ないほどの、実力者だったのです。船橋市で質屋と貸金業を営んでいた会社の社長さんでしたが、この事務局長に私のデマを吹き込まれてからは、会長は私とまともに話もしてくれなくなってしまっておりました。
 
それでもこれが次のステップへの最大の懸念となるとは、この時には考えてもいませんでしたが。
 
私の転籍した個人信用情報機関は、当時は業界ごとに分かれていた個人信用情報(銀行は全銀協信販系はシー・アイ・シー、消費者金融は全情連)の括りから離れて、銀行でも信販会社でも消費者金融でも加入して情報を登録・利用が出来る「全業界横断型」と言われる日本唯一の企業、セントラル・コミュニケーション・ビューローという会社でした。
 
この会社を選んだ理由ですが、私が貸金業協会で多重多額債務者の救済更生業務に従事していた時、「この多重債務者を生み出す原因は何だろう?」と考えて思い当たったことが、個人信用情報の未整備・不完全利用ということ。
 
銀行で多額の住宅ローンを組んでいても信販会社は全銀協の信用情報を照会が出来ないので住宅ローンの重さは分かりません。
またクレジットカードや車のローンの支払いに困って、その返済資金の為に消費者金融に駆け込んでも、消費者金融会社にはシー・アイ・シーの信用情報を照会出来ないので、信販でカードが何枚も発行されていたり多額のオートローンを組まれていても、それが分からず「まっさら」で何の借り入れもない良客に見えてしまうのです。
これでは、正常な与信判断は絶対に出来ません。
この信用情報を全業態型に切り替え、すべての信用情報を銀行、信販消費者金融などの業態を問わずに与信時に与信する企業が照会・利用出来る状況を築きたい・・・それがこれ以上多重・多額債務者を増やさない為に必要なことだと、私は考えておりました。
そう考えると、すべての業態の信用情報を扱うセントラル・コミュニケーション・ビューローは、多重多額債務者を増やさない為の最適解だと考えたのです。
 
 
セントラル・コミュニケーション・ビューローで私が担当したのは、貸金業協会時代に従事していた多重多額債務者の救済更生活動での経験を生かせる、信用情報の開示請求を処理する相談担当者でした。
 
そこから仕事は徐々に拡がって、個人信用情報機関を照会して得られた情報を、どのように与信に生かすかを信販会社の与信担当者に対して解説する実務研修の講師や、金融業界紙への連載記事の執筆、公的機関に提供する個人信用情報に関する消費者啓発活動などの広報、そして個人信用情報を登録・運用しているシステムの新規開発に際しては、登録・保有する情報の項目や登録内容、そしてどのような場合に登録が必要かという登録の定義を固めるプロジェクトのメンバーに選ばれるなど、年齢の割には幅広く仕事をさせてもらっておりました。
この時の私の年齢は、28歳から31歳でしたから。
 
その仕事を通じて、元日経新聞の記者でクレジット会社へコンサルタント業務を主に行っていた岩崎和雄さんと出会うこととなりました。岩崎さんは実はこのセントラル・コミュニケーション・ビューローの設立に関わった方。岩崎さんの主張する「スリーローンリミット」(一般の消費者が健全に利用できる無担保無保証の借り入れは3件が限界ということ)や、個人信用情報が銀行・信販消費者金融に分断されている問題点への指摘は、私にはものすごく腑に落ちるものでした。
研修会にゲストとして度々岩崎さんを招いていた関係で、同じ研修会で講師を担当する私の話も岩崎さんには聴いていただいており、その考えが相通じるものであることも手伝って、私は岩崎さんには大変懇意にしていただけるようになっておりました。
 
しかし、セントラル・コミュニケーション・ビューローでは、貸金業協会よりもっと酷い、社内いじめに苦しむことになりました。業界内でもかなり若いうち(29歳)に課長職を拝命したり、「悪目立ち」するようになっていたのでしょう。
 
セントラル・コミュニケーション・ビューローでは、加盟する企業(信販会社や銀行系カード会社・消費者金融など)が持ち回りで役員などを担当する人間を送り込んでいましたが、もう少し経営の独自性を高め、更に拡大展開をしよう・・・と、専任の社長を置くことになり、その初代にクレディセゾン出身の渡辺隆氏が就くことになりました。
 
この渡辺氏に、着任当初は私も「お前はセンスの良い奴だ」と評価され、非常に気に入られておりました。
しかしそれを快く思わない方は、当時の私が考えるよりはるかに多かったのです。加えて私もまだ未熟でそういう方々の気持ちや対応の仕方などがまったく理解出来なかった為に、私を快く思わない方々にあっという間に渡辺氏に、私が口にしていない渡辺氏への不満や批判を吹き込まれ、それを反論することさえままならずに、社内でほとんど閑職にまで追いやられる羽目にあってしまいました。
 
これも元はと言えば、私が渡辺氏に歯に衣着せぬ「暴言」を吐く事も日常茶飯事だった為に、揚げ足を取ろうと考えれば簡単だった事もあったのでしょう。当時、初のプロパー社長となった渡辺氏には、社内のほとんどの管理職がイエスマンとなった中でも面と向かって平然と反対意見を述べたり、愛煙家であった渡辺氏に「社内禁煙」のプラカードをもって社長席前まで詰め寄るなどという、かなり破天荒なことを平気でやっていましたので、今思い返せば自業自得とも言える状況でした。
 
ほとんど新しい仕事が出来ない状況に置かれてしまいましたが、当時私は社外にもかなりの人脈が出来ていましたので、それを辿って金融・クレジットの上場企業へ転職し、次のステップへ進もうと考えて水面下でアプローチを始めました。
しかしここで貸金業協会時代の会長さんが最大の障壁となり、どれも全く先に進まなくなってしまったのです。
 
話がまとまりそうになるとしばらく音沙汰がなくなり、やがて担当の方から「申し訳無いですが、このお話は…」という流れを何度も繰り返してしまうようになってしまいました。相手先の企業では私の経歴は分かっていますから、入社前に「どんな人物か」を、この会長さんに確認したのでしょう。その行為そのものは受け入れる会社としては当然のことですが、その得られる情報は、すべて「事実無根」だったのですけれど。
 
ただ、捨てる神あれば拾う神あり、です。
岩崎さんが私の苦境を知って、「京都のある企業でクレジットカードを新しく発行したいと考えている。ぜひ、君の知恵と経験をそこで生かしてくれないか」と、声をかけていただけたのです。
 
その会社はニッセンという通販の会社。
当時は「みてるだけ」というテレビCMで売り上げを伸ばし勢いのある企業でしたが、ハウスカードを発行することでこれまでの顧客を更に囲い込み、また並行して行っていた貸金業の延滞率の高さも悩みの種で、これを一気に解決して欲しいとの、有難すぎる「縁談」でした。
 
これまでの人生で何の縁もゆかりもない京都という土地。その頃生まれたばかりの息子の成長も考え購入したマンションへの入居も控えていましたが、それをキャンセルしこの仕事に賭ける形で、京都へ転勤することとなったのでした。
 
この年は1995年。そう、阪神・淡路大震災の年。それと地下鉄サリン事件の起こった年でした。
 
当時の妻の実家(宝塚市)へ1994年の年末に帰省していた私は、1995年の三が日に震災前の神戸・三宮を訪れていましたので、あの震災は本当に心を痛めました。ほんのちょっと前、あんなに平和だったところが、いっぺんに景色が変わってしまって…。
 
更にその年の3月に起きた地下鉄サリン事件。オウムの犯人にサリンをまかれた地下鉄千代田線の電車は、なんと私が当時住んでいた北松戸から飯田橋まで通勤に利用していた電車と同時刻のものでした。もし、私がセントラル・コミュニケーション・ビューローを退職していなければ、私はもうこの世に存在していなかったでしょう。そう考えると、ニッセンへ転職となった流れが運が良いのか悪いのか、分かりませんが。
 
ちなみに、岩崎さんも渡辺氏も、若くして亡くなられ既に故人となっております。寂しい限りです。
またニッセンも私の在籍当時は地場の和服を中心に取り扱う販売店から発展した通販会社でしたが、創業社長の死やその後の通信販売業界の不調などもあり、現在は通販部門はセブンアイの傘下となり、クレジットカード事業は当初外資へ売却された後に現在では新生銀行ニッセンホールディングスとの共同運営体制となっております。

 

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マジック。

久しぶりにMarinesの話題を。

 

こんな時期に首位にいるなんて、やっぱりコロナ禍や異常気象が続いているせいか・・・(笑)なんて思ってしまう負け犬根性の染みついたファンですが、このバファローズ三連戦始まる前で3ゲーム差。こんなのはちょっと連敗してしまえば吹っ飛んでしまうものですけれど、正直今年はうまく行き過ぎているので私自身「3つのうち、一つくらいは勝てるだろう」と高をくくっておりました。

 

www.nikkansports.com

いやあ、見事に「スウィープ」食らいましたね。

 

今年のMarinesは、五輪の日本代表に12球団中唯一誰も選ばれないくらいに、いわゆる「これ」と言った強みのある選手がいません。しかし野球はチームプレー。リーグ戦ともなれば誰かが調子を落とせば誰かが調子を上げて、それがうまい具合に回ってこの時期の首位をもたらしたと言えます。しかしこれから残り試合が少なくなってくると、ここ一番の勝負への執着心、個々の地力の差が勝負を分けてきます。

 

束になってかかって勝てるのは一発勝負のトーナメントだけです。やっぱり軸のないMarinesは、ホークスやバファローズとの競り合いになると、分が悪い。

 

やはり”絶対的エース”や、”頼れる4番”のいるチームは、求心力が違いますね。

 

それと、Marinesのナインに今足りないもの。

ここ一番の執着心でしょうか?

 

千隼が松本選手に投じたボールも、益田がT-岡田にこれまた不用意に投げたボールも、その投球直前の表情が集中力を欠いていたように見えました。

Marinesのナイン自身が「3つのうち、一つ勝てりゃいいや」って、心のどこかで思っていませんでしたか?

 

対してバファローズのナインは、皆闘志漲っていて(大下選手はベンチで煩すぎですが(笑))、打席に入っている一人一人の顔が、いい顔していたのが印象的です。

全員が、「スウィープ」するぞ!って意気込んでいましたよね。

 

まあ、3連敗してもまだ勝率で首位という状況は、有利には違いありません。

でも、これまで常に誰か好調な選手に引っ張られていたMarinesは、投打共に軸になれる選手がいない今の状況で、これからクライマックスに向けては、相当厳しい戦いが続くでしょう。

8回9回のメンバーが揃ったホークスはやはり不気味ですしね。

 

井口監督の言う「束になって戦う」ならば、ゲームに出ている全員が、一球一球に集中して、「1球でも相手投手に多く投げさせる」「一つでも先の塁を狙う」「守備についてもピッチャーの球種やコースをしっかり把握する」等を常に続けなければ、これから今の順位を維持するのは難しいでしょう。それだけ傑出した選手がいないのですから。

これからは誰かがそんな「頼れる4番」「絶対的エース」に育ってくれるのを、待っています。

早く帰って来て、種市。

 

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