幕張の風

So-netブログ「From Makuhari~幕張の風」から移転しました。 仕事のこと、ニュースのこと、音楽のこと、野球はMarinesと高校野球中心に書きとどめたいことを書いて行こうと思います。

骨折。

このブログでも何回か触れさせていただいておりますが、私は障害者手帳を持っています。

障害の内容は、第2種・5級身体障害者という区分になり、手帳には「左肘関節骨折による左肘関節機能障害」と、書かれています。

私の骨折は、程度はかなり重傷だったのですが、適切な治療を行っていれば、何も障害を残さなかったでしょう。

私の記憶が確かなうちに、記録のために記しておきたいと思います。

その日。

昭和46年7月24日、小学校2年生だった私は、この日から夏休みになった開放感で、色々と計画を立てていたようです。まずは宿題、そして虫取り、プールや海へも行こう・・・。当時は静岡県浜松市の西方にある、気賀という街に住んでおりました。国道362号線に程近い、自衛隊呉石官舎です。

夕食が終わって、うつ伏せに寝そべりながら、当時定期的に買ってもらっていた“小学二年生”という雑誌を読んでいました。勉強用の机は、父が学生時代に使っていた机を「おさがり」で貰って使っていましたが、そこを2つ年下の弟が占有していたのです。椅子を後ろの方に傾けて、四本ある椅子の足の後ろ2本でバランスをとってブラブラ・・・と。

机から離れて寝そべっていれば良かったのですが、自衛隊官舎の部屋は4畳半が基本で狭いですから、椅子が倒れれば私の上に落ちてくる距離です。

やっぱり、倒れてしまったのです。弟は背もたれに全体重を乗せた状態で、椅子の背もたれの裏の金具の部分が、私の左肘を直撃しました。

小学二年生の判断力なんてたかが知れています。私は弟が倒れて椅子がぶつかったことは判ったのですが、後はあまりの激痛で泣き叫ぶしかありません。

弟も、体が落ちると同時に顔をぶつけたらしく、鼻血を出しています。兄弟二人の泣き叫ぶ声を聞いて、両親が飛んで来ました。

でも、二人とも弟の方に行くんですね。私は兄で、事あるごとに「お兄ちゃんでしょ」と言われておりましたから、この酷い痛みの中でも、弟の状況を見ていました。鼻血は出していましたが、はっきり声を上げて泣いて、大したこと無かったようでいったん泣き止んだのですが、そのあと私の痛そうな顔を見てもう一度泣き出したのです。

弟って、こういうものですよね。兄が泣いていれば自分も泣かないと「自分が悪く思われる」って考えて、自己防衛本能的に泣きだすものです。父はある程度心得ていたのでしょうが、やはり兄の目から見れば「弟ひいき」な対応が多かったです。

で、この時も、「こりゃあ、私の方が怒られるぞ、でも倒れてきたのは弟だから、それはきちんと言うぞ」などと考えていたのです。そこへ二人とも弟の方へ行って、私に向けて言った父の言葉はこれでした。

「泣くな、男だろ!」

父の言葉は絶対でしたから、泣くな、と言われれば、私は泣くわけには行きません。それに、泣いて痛みが和らぐものでは無いと判っていましたから、すごい痛みはありましたけど、泣き止みました。

それでも私の様子がおかしい、と思ったのでしょう。弟がただの鼻血だと判り、私が泣き止んでも痛そうな顔をしていたので父は私の左腕を取ってなにやら確認始めました。「脱臼かも知れんな」そういって、町の接骨院へそのまま連れて行かれました。

接骨院では、父が脱臼でしょうって説明して、私も泣いていなかったですから、レントゲンを撮って見せてくれたときには、そこの院長が驚いていました。私の肘関節は「粉砕骨折」で、殆ど粉々になっていたからです。こんなになっているのに、泣かない子は初めて見た、と。

すぐに浜松市の病院へ行って、手術するように両親は言われていました。「ここは骨接ぎ、骨折の治療は出来ないから、すぐに行ったほうがいい」と。

ここで両親と院長の会話がどうだったかは、はっきり覚えていません。高々小学二年生の記憶です。それと痛みのひどさで意識もはっきりとしていないのです。ただ記憶に残っていたのは、「手術させるのは可愛そう」「入院の費用をどうしよう」と、両親が話していたということです。悩んだ結果でしょうが、両親は院長に頼み込みます。何とかここで治療してくれ、と。院長がすごくそれを渋っていたのは覚えていますが、それが何故なのか私が知ったのは、もっともっと後になってからでした。

お金がない、ということ。

結局のところ、当時の両親にはお金がなく、私を入院させるだけの費用を出すことが出来なかったというのが、この当時の真相でした。運悪く、父はクルマを買ったばかり、(自衛隊員への融資制度を使って)毎月の給料もすぐに足りなくなってしまい、母の実家へ良くお金を貰いに行っていたのですが、それも6月に、クルマを買うというので早めに貰いに行ったばかりで、追加で頼みづらかったのでしょう。当時父は31歳、母は29歳。今の私から見ればガキのようなものです。

この当時、もし消費者金融があったら、どうなっただろうか?って思います。うちの両親は、ちゃんと借りに行ってくれただろうか、と。親族に頼みにくい、でもどうしても現金がいる。

私がずっと消費者金融業界で過ごしていたのは、この骨折の体験があったから、でしょうね。

ギプスとリハビリ

院長は、入院を勧めてくれましたが、渋々ながらもいったん治療を引き受けた以上は、最大の努力をしてくれたと思います。

粉砕骨折から手術無しに、いったんはちゃんと動くように治したのですから。

レントゲンの説明、そして両親と院長とのやり取りのあと、骨接ぎのみで粉砕骨折の治療を行うことになりましたが、それはものすごい痛みを伴うものでした。

関節がぐしゃぐしゃの状態で、曲げたり伸ばしたりしながら飛び散った骨の形を整えて行くのです。嫌な音がしていたのと、左肘から痺れにも似た痛みが伝わってきたのを、今でも覚えています。

それでも私は泣きませんでしたから、院長は何だか怖くなったみたいですね。「この子はいったいどこまで痛みを我慢できるのだろう」って、思ってたそうです。後でリハビリの時に言われました。

関節の修復が終わったあと、ギプスで固められました。あとはひたすら固定するだけです。

夏休みも終わる頃、ギプスが外れました。それからはリハビリです。治療の痛みに比べればリハビリはラクでした。2ヶ月ほどのリハビリで、少し関節は左右にガクガクするものの、曲げたり伸ばしたりは、ちゃんと動くようになりました。レントゲンも奇跡的にちゃんと関節が戻っています。

ここまでは、上手くいっていたのですよね。

子供の骨は、固まったようで固まっておらず、外科的治療無しにくっついた骨は脆かったのでしょう。その後、どのタイミングで関節が再び変形したのかは、今となっては判りませんが、関節の一部の骨が剥離して大きな瘤となり、上腕部の筋肉に癒着してしまいました。

発覚。

奇跡的に治った、と思った関節ですが、動きはやはりガクガクとしたままです。中学に上がり、野球を始めますが、グラブを持つ腕の動きがおかしいのです。

2年生になって、宮崎へ転校します。その時に最初に友達になった同級生に、柔道の青年団への加入を誘われます。私は、静岡で柔道をやっていたので誘われるままに柔道を再開します。ここで柔道をやったことが、私にとっては吉と出ました。

たまたま、柔道の稽古中に、下級生の練習相手になっていたところ、無理に投げられて受身が取れず、右肩から落ちて肩の筋を痛めてしまいます。理学療法では中々治らないので、柔道の先生に勧められたお隣町の高鍋町鍼灸師の所へ行きました。

ここの鍼灸師の方が、とても素晴らしい方でした。高鍋町の名誉町民として表彰されていたのですが、すごくボロボロな家で治療を続け、一般の方の治療費用も1,000円なのですが、学生だった私はたったの500円。生活保護などでお金がきつい人からは、一切治療費を受け取らない人でした。それでも針治療・灸を使った治療の時間はたっぷり1時間以上はかけて丁寧にやってくれます。

この鍼灸師の方が、私の右肩の治療で伺っているにも関わらず、左肘の異常を発見してくれたのです。この方は全盲で、光も判らない状態であるのに、私の背中の筋肉の張りから左半身の筋肉の張りが異常だと言うのです。左の腕も見せて、と言われ左肘を触って「ここは痛くないですか?」と尋ねるのです。そして「この関節は、骨に異常があるから大きな病院でレントゲンを撮って、医師の判断を受けなさい」というのです。

左肘の骨折の説明も何もしていないのに、目も見えないのに、初めて行った鍼灸師に指摘されたものですから、すぐに病院を探して行きました。

当時住んでいた新富町と言う町にも、高鍋町にも病院はなく、宮崎市の大江整形外科病院というところに、中学の担任に勧められて行く事にしました。

余談ですが、この時の担任の先生、とても尊敬しています。亡くなってしまった今でも。私の人生で、本当に大きな影響を与えてくれた方です。その先生は2000年、58歳の若さで、癌で他界してしまいました。友人から知らされたときは、私は我慢できず声を上げて泣きました。

今思うと、この紹介していただいた病院の院長も、とても腕の立つ外科医だったようです。この病院で手術を受け、リハビリ中に千葉へ引っ越してきたのですが、紹介状を持って訪ねた千葉の病院の医師が、最初に言った言葉が印象的でした。

「信じられない。関節の手術は神経が入り組んでいて、こんな手術は私は難しくて出来ない。普通は手首から先は完全に麻痺してしまう。」

変形した関節を、絡みついた神経を丁寧に傷つけないように、あるべき場所に骨を戻し、釘と針金で骨を固定したあと、可能な限り神経を元に戻していたのです。このときに打ち込んだ金具は、私の肘にまだ残っています。大事故などで遺体が跡形もなく燃えても、これで私かどうかの確認がすぐ出来るでしょう。

親の判断に問題はありましたが、その後は本当に何人もの方に救われています。いくら感謝してもし足りないくらいです。

麻痺との戦い。

何人もの方の心遣いで、麻痺を免れてきた私の左腕ですが、高校へ入学したぐらいから、中指・薬指・小指の動きがおかしくなります。

高校に入学してから吹奏楽部へ入部し、パーカッションを担当していましたが、だんだんスティックを持つ指に、力が入らなくなって来ました。シンバルを持つと左の肘に激痛が走ります。

家のすぐ近くにあった病院で診てもらいました。心配していた通り、麻痺が進んでいます。進行を止める為には、なるべく早く、肘を通っている神経のバイパス手術が必要だと言われました。それでも、麻痺の進行を止められるのは、長く見ても30歳くらいまでだろう、でも、ここで手術をしなければ、高校卒業までには、左腕の指は親指以外の感触はなくなってしまうかも知れない、と。

その病院の先生が慶応医学部の出身だったのですが、しばらく東京歯科大病院の医局に入っていたようで、東京歯科大市川病院を紹介されます。そこには肘関節の神経の研究の第一人者がおられたようで、色々と検討してくれたようですがやはり手術したほうがいいだろう、と2年生の夏休みを利用して、手術を受けました。 大学病院ですから、中には手術に反対の医師も居て、回診のたびに愚痴っている人が居ましたね。意見は色々あったほうが良いです、なんでも。そのほうが必ずバランスが取れます。

バイパス手術で、神経を肘関節の内側に移したので、痺れの進行は止まり徐々に指の感覚も戻って来ました。一応、手術は成功しましたが、引き換えに私は吹奏楽部を続けることを、諦めなければなりませんでした。

私はこの左肘で、野球に続いて音楽も諦めることになってしまいます。

原因。

バイパス手術で麻痺の進行は30歳までは大丈夫、と言われていましたが、幸運なことに43歳の今でも、感覚は残っています。ただ今年に入って、中指・薬指・小指は殆ど動かせなくなりました。もう、完全には動くことは無いでしょう。

こうしてブログのエントリーでキーボードを入力するのも、左腕で使えるのは親指と人差し指だけです。それも、あまり使っていると左肘関節そのものが痛み出すので、左腕全部を指一本分として、シフトキーを押したりするのに使う程度です。

過去のことではあっても、もう仕方ないことなんだと判っていても、どうしてもやりきれなくなるときがあります。そんなときの勢いで、申し訳ないとは思ったのですが、最初に治療してくれた接骨院へ電話をして聞いてしまいました。

当時のカルテが、残っているか、そして、骨折を治療することはあるのか、、、と。電話をしたのは2003年のことです。電話に出た方は、おそらく後を継がれたお子さんでしょう。でも、不躾な電話であるにも関わらず、とても真摯に答えてくださいました。

当時のカルテは、申し訳ないが残っていない。10年以上前のものは、破棄している。そして当院では、余程の要望が無い限り、骨折の治療はしない。元々“ほねつぎ”に骨折の治療は認められていないし、治療してもいい結果になることはありえないから・・・と。

私の左腕が、普通の人のように動くことはもう有り得ないでしょう。それと、この障害の為に私が失って来た物は、沢山あります。それでも、これで命を奪われる訳ではないですから、目くじら立てるほどのことではないかも知れません。それと、この左肘の障害があるがゆえに得られたもの、してきた経験が、今の私を作って来たことも事実です。

それでも私は、自分の息子には、病気や怪我になったときには出来る限りの治療を受けさせてやりたい、そう思います。自分がこんな経験をして来たから、余計にそう思ってしまうのでしょう。

2007年4月1日になりました。私の左腕はまだ完全に麻痺はしていません。

それは今まで記してきたように、多くの方のご好意があったからです。また、私がこの左肘を持つことになったのは、私の心は貧しいので、こういったものを背負い込まないと、人の気持ちのありがたさが分からなかったからでしょう。

すべては、自分に必要な経験なのだと、感謝してこれからも生きて行きたい、そう思います。