幕張の風

So-netブログ「From Makuhari~幕張の風」から移転しました。 仕事のこと、ニュースのこと、音楽のこと、野球はMarinesと高校野球中心に書きとどめたいことを書いて行こうと思います。

野球の神髄。

“バット投げ。”のエントリーで知った伝説の打撃コーチ、高畠導宏(たかばたけ みちひろ)さんの生涯を綴った本、「甲子園への遺言」を読み終えました。

想像以上の読み応えでした。1冊を読み終えるのに、本を読むのは早いほうだと自覚している私でも充分に6時間以上の時間をかけて読む必要がありました。
野球を、実際に打席に立ったりプレーした経験のない方には、打撃理論の表現が理解できずにもっと時間がかかってしまうかも知れません。でも、野球を知らない人が読んだら意味がないかというと、まったくそんなことはありません。心ある人ならば人間「高畠導宏」の生涯をこの本で触れることが、その後の人生に少なからず良い影響を与えるのではないか、そう思える本です。


高畠導宏さんは平成16年6月に、肝臓がんで60歳の人生を終えました。その時の職業は福岡県の私立筑紫台高校の教師でした。野球をプロ選手として、そしてコーチとして突き詰めた高畠導宏さんが何故教職を目指したのか、この本にはその答えが記されていました。

高畠導宏さんは岡山県出身、岡山南高校からノンプロの丸善石油へ進み、そこがすぐに野球部解散になると中央大学へ転じそこから再びノンプロの日鉱日立へ進んだのちに、昭和42年のドラフト会議でプロ野球南海ホークスに5位指名されてプロ入りします。

高畠さんの現役時代は、決して恵まれたものではありません。期待の大型スラッガーとして鳴り物入りで入団し、新人王当確とまで言われたその実力は、発揮できぬまま現役を終えることになります。開幕前のスライディング練習で、左肩を脱臼し、ちゃんと休んで治療をすれば何でもない怪我でしたが、新人と言うこと・周囲の期待もあり無理を押して出場するうちに、現役野球選手としては致命的な故障へと悪化させてしまいます。

現役は5年間と短かったですが、ここで当時南海の監督だった野村克也さんの眼力が高畠さんのその後の運命を変えます。齢28にして打撃コーチへの抜擢です。

スタートが若かった分、選手と共に成長するスタイルでコーチとして成長して行ったことが、その後の高畠さんの人生を大きく左右したのでしょう。また、期待され無理をして体を壊すと言う経験を、自分自身でしたことが、選手の理解を深めていったのでしょう。そういう意味では人生は必然で出来ているものなのか・・・と感じさせられました。

高畠導宏さんの教え方について、指導を受けた選手全てが異口同音に言うことがあります。それは「絶対に、ああしろ、こうしなさい」と自分から言い出さないことです。
最後の講演で語っていた言葉に、象徴的なものがありました。「コーチは、悪いところを直すなんて出来やしない。だったら良いところを伸ばしてやれば良い」・・・

高畠さんのバッティング理論があるとすれば、「ミートポイントへバットを構えた位置から最短距離で持っていく」「ミートポイントではボールの内側を叩き、出来るだけ大きくスイングする」ということでしょうか。
それを、アッパースイングはダメとかドアスイングになってはいけないとか、マイナス思考の「ダメ」は言わずにその選手その選手に合った方法で、「ミートポイントへ最短距離でバットを持っていく方法」と「バットに当てたら出来るだけ大きくスイングする」ことを考えるのです。それは練習方法の提案だけではなく、相手ピッチャーのクセの盗み方であったり、投球パターンの読み方であったり、それこそ選手の数だけやり方を考えて行きます。

こういった選手の個性を重んじるだけでなく、その選手に合ったやり方を常に研究する姿勢が延べ30名以上のタイトルホルダーを育て上げた原動力に他ならないと、思います。


件の“バット投げ”ですが、ウィキペディアでは高畠導宏さんがその原因を作ったかのように書かれていましたが、そんなことはありません。
高畠さんの独特のコーチ方法、その人それぞれの状態に応じたアドバイスで、「悪いところをこうしろ」と言うのではなく、他の事に集中することで欠点を修正して行くというもののひとつが、この“バット投げ”なのです。

バットを振るときは、誰でも両腕で振りますから、構えてからミートポイントまではバットを握った両手はそのままの位置関係を維持出来ても、ミートした後振り切るには、大抵の人が利き腕を上に被せる、いわば「バットを捏ねる」状態になってしまいます。
それを、利き腕ではない腕がグリップを柔らかく持てる人は良いのですが、これが中々出来ない人の場合ではミートはするけど飛距離が出ない、或いはミートポイントそのものがずれて、ボールの頭ばかり叩いてゴロしか打てなかったり、その逆にボールの下ばかり叩いてポップフライの連続・・・などと言うことになってしまいます。
これを修正する為の練習法のひとつが、バットを投げる独特の練習法でした。

この練習方法を伝授されたのが千葉ロッテマリーンズの福浦であり、サブローでした。バットを「捏ねる」前にバットを放り投げて、捏ねないイメージを作る為の練習なのです。
今はメジャーに渡っている元オリックスの田口選手も、このバット投げ練習をする為にグリップを切り取ったバットを沢山用意していたそうです。田口選手の場合は、バットを捏ねない為と言うより、右中間方向へバットを投げるイメージを残すことにより、ミートポイントから大きくバットを振り出すことの出来るスイングを作るためのものだったようです。
このバット投げひとつにしても、個々の選手によってその目的を変え、より適切な方法を考えたのが高畠コーチの手法でした。


このバット投げに限らず、高畠さんは独特の練習方法をその限りない探究心で次々に考案して行きます。それも、全ての選手を一様に「3割バッター」に育てるのではなく、それぞれの個性を考えた指導をして行きます。それは一人一人にまるで「俺だけのコーチ」であるが様な指導です。そんな指導が出来たのも、コーチ面せずに選手と一緒に成長してゆくという基本スタンスを決して忘れない高畠さんならではと言えるでしょう。

プロ野球のコーチとして、大変な実績を残された高畠さんですが、それでも失敗はありました。ダイエーホークス中日ドラゴンズの打撃コーチ時代、いずれもドーム球場に切り替わる前年と切り替わった翌年のコーチを務めますが、いずれもドーム球場に移転した年は、その球場の広さにバッターが萎縮し、惨憺たる成績に終わってしまうのです。

球場が広くなったと言っても、実はそれ程バッティングに影響があるものでは無いのです。一部のホームランがスタンドに届かないだけですから、大多数のヒットには影響がありません。それでもこの球場が大きくなったことによる選手へのインパクトはバッティングの萎縮を招き、成績の悪化へ繋がっていったのです。

こういったメンタル面での障害を取り除くにはどうしたら良いのか・・・高畠さんが心理学へ関心を持って行くのは必然だったのでしょう。そこからカウンセリングへ興味は拡がり、ついには自ら教壇に立ち、甲子園で全国制覇できる生徒を、育てたいと夢見ることも、これもまた必然だったように、感じました。

最後の教壇でも、高畠さんはこう訴えかけていました。

「才能とは、諦めないこと」

そんな高畠さんでも、病魔には勝てませんでした。それが残念でなりません。でも、この本によって高畠さんの生涯が永遠となって、多くの人の心に力を与えることが出来るのならば、高畠さんはそれで本望でしょう。余命を告知された日の日記に記された「無念」の文字も、少しはその無念を晴らすことが出来たのではないかと、思いました。


高畠さんが平成15年に大宰府の中学校で行った講演の中で、自分自身の経験、そして何人ものプロ野球選手を通してたどり着いた、“豊かな人生を過ごす”のに必要な、人生そのもので大切な、伸びる人の共通点を、7つ挙げました。

1.素直であること
2.好奇心旺盛であること
3.忍耐力があり、あきらめないこと
4.準備を怠らないこと
5.几帳面であること
6.気配りが出来ること
7.夢を持ち、目標を高く設定することができること


どれも、ただの人である私などは、つい諦めて手を抜いてしまいそうなことばかりです。高畠さんはこう語りながら、実はそれは高畠さんの人生そのものであったように、私は感じました。


甲子園への遺言―伝説の打撃コーチ高畠導宏の生涯

甲子園への遺言―伝説の打撃コーチ高畠導宏の生涯

  • 作者: 門田 隆将
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2005/06/29
  • メディア: 単行本