幕張の風

So-netブログ「From Makuhari~幕張の風」から移転しました。 仕事のこと、ニュースのこと、音楽のこと、野球はMarinesと高校野球中心に書きとどめたいことを書いて行こうと思います。

“勝ち”と“負け”。

もう、すっかり当たり前となっている「勝ち組」「負け組み」・・・こういう呼び方を快くなく思う方もいらっしゃるのではないでしょうか。
かく言う私も“大嫌い”でして・・・私が言うとそれこそ「負け犬の遠吠え」なりそうですが・・・この表現って、一体いつから始まったのでしょうか?

勝ち組 ~ Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8B%9D%E3%81%A1%E7%B5%84

職業や社会的地位・収入の多寡で人生の勝ち負けを本当に決められるのでしょうか?そしてそれは相対的に評価されるものなのでしょうか?

勝ちの評価って、どこにあるのでしょう・・・単純に考えると、金銭的な充足の度合いで、高給を得られる・社会的に安定している・周囲から羨望の眼差しで見られる・・・etcのような職業についている人が、所謂「勝ち」に相当するのでしょう。その他には結婚している・していないとか、家を持っているいないとか家族状況や資産の構成などでも「勝負」が行われているようです。

この「勝ち組」という呼称、差別を助長するなどと言われながらも、消えて行かずしつこく出てくるのは、人間の中に本質的に「他者より勝っていたい、上に居たい」という欲求があるのかも知れません。

私は、仕事も何度も転職しておりますから、社会的にはかなり低めのお給料に甘んじておりますし、以前は社会のゴミとかダニ呼ばわりされる消費者金融業で長年勤めておりました。私生活では3回も離婚を経験し(爆)、父子家庭となっておりますのでとても家族として恵まれた環境にあるとは言えないことから、これらの“判定基準”から判断すると、私は正に究極の「負け組」と呼べるでしょう。

それでも、私は勝ち組になろうとは思いませんし、勝ち馬に乗ろうとも思わないのです。

勝ち組というには、あくまで「負け」の人が居るから相対的に「勝ち」になります。別にその勝ち組の人が物理的・経済的に負け組の人を「蹴落とす」訳ではありませんが、「勝ち組」「負け組」という呼称を使う人の心の中には「勝ちたい、他人よりも豊かで恵まれた生活をしたい」という欲求があることでしょう。そこには他人の目、評価を気にするさもしい心があるような気がします。別に良いではないですか、他人が自分をどう考え判断しようと。

世の中、いわゆる「勝ち組」の方でも、負けの人達を見て、「ざまあみろ」と声を上げて言う事はないでしょうが、「私はあの人には勝っている」などと内心ほくそ笑む人も居るでしょう。でもそこで「勝った」と思った方でも、その人よりもっと恵まれた境遇の人が現れたらどうなりますか?
自分より恵まれないと思われる境遇の人と比較して自分が「勝った」と感じている方は、自分よりも豊かで恵まれた人を見ると、自分の「負け」を感じるでしょう。
結局「勝ち」でも「負け」でも、比較対象があって初めてそう判断されるに過ぎないのです。

私は、今は世間一般から考えればそれほど高収入を得ている訳でもなく、社会的に高い地位に居る訳ではありません。それでも、ちゃんと衣食住が足りた生活を日々営み、人様にご迷惑をお掛けせず、息子と日々平和に過ごせたことを感謝して過ごすことが出来れば、それ以上は何も望みません。

世の中、「勝ち組」であることだけが、幸せの基準だとは私は思いません。
大切なのは物質的な欲望を人様との比較の中で追い求め、満たし続けることよりも、「足るを知る」・・・現在の境遇に満足し感謝する・・・ことの出来る気持ちが、一番必要なのではないかと思うのです。