幕張の風

So-netブログ「From Makuhari~幕張の風」から移転しました。 仕事のこと、ニュースのこと、音楽のこと、野球はMarinesと高校野球中心に書きとどめたいことを書いて行こうと思います。

追及 その1。

5歳くらいの頃だった。家族でドライブへ出かけて、リアシートでうとうとしていた時、経験したことのない寂しさが、心を支配した。前のシートで話をしている両親がぼんやりと、とてもとても、遠い世界の出来事のように、見えたのだ。

 

「この人たちは、僕の何なんだろう?」

 

うつらうつら聞いている“両親”の話が、遠くの方でざわついて聞こえてくる。

目覚めてから母に「僕は、どうしてここに居るのかな?ここに居て、本当に良いのかな?」と尋ねたが母は「何のこと?」と答えた。当たり前だ。私が見た夢のようなものの内容を、母が知る由もない。

でもその時感じたその私の感覚は、多分正しかった。それから多くの謂れのない親からの差別に、何回も苦しむことになるのだから。

 

昭和46年の夏休み初日に、今後の私の人生を大きく狂わせる事件が発生した。

私は夏休み初日の解放感とともに、私は子供部屋になっていた畳敷きの四畳半の部屋で寝そべって、「小学二年生」と言う月刊誌を読んでいた。弟は私が使っていた父のお下がりの勉強机に向かって、椅子に腰かけながら、椅子の四本の足の後ろ二本だけで立って、反対は机の端を両手で持って、グラグラとロッキングチェアーのようにして遊んでいた。その真横で私がいた。

そんな不安定な遊び方で、幼稚園児だった弟が姿勢を維持出来るはずもない。

弟はやがてバランスを崩して椅子ごと倒れてきた。そして椅子の背もたれを支える金具が、寝そべっていた私の左肘関節を直撃した。

激痛が私を襲った。高々小学二年生の判断力だ。何が起こったか分からず、泣き叫んだ。弟も倒れ込んだはずみで鼻血を出して、こちらも泣き叫んでいる。

 

「どうしたんだ?」父が大声を出して母とともに子供部屋にやってきたが、二人とも弟の方に向かった。いつもそうだったのだが、この時もおそらく両親は、私が弟に何かしたのかと判断したのだろう。完全な“濡れ衣”なのだが。そしてこの時も父は私に向かってこう怒鳴りつけた。

 

「泣くな、男だろ!」

 

こう言われると、私は泣き続ける訳には行かない。泣くを止めて必死に痛みに耐えた。

父は弟の状況を確認し、鼻血だけであることを確認した後で、やっと私の状況を確認しにやってきた。「脱臼しているかも知れんな」と父は言い、そして近所の接骨院へ連れて行かれた。今思い返すと面倒で嫌々ながら連れて行かれたように、感じたが。

 

接骨院ではレントゲンを撮影された後で、とてもとても長いこと、待合室の中で私は一人きり待たされていた。隣の施術室では何やら両親と整復師が話をしている。はっきりとすべてが聞こえる訳ではないが、「お金がないんだ」「このままここで治療を続けてくれ」と言っている父の声が、確かに聞こえた。

そして私はそこの接骨院で、左肘関節の粉砕骨折の「治療」を受けた。本当は浜松市にある病院へ転院してすぐに手術を勧められたにも関わらず。


当時はどうして転院させてくれなかったか理解出来なかった。もちろんその後私が成長してから何回も何回も母に問い質してみても、母は押し黙るのみ。私はこの時に生じた左肘の障害の為にその後、野球を諦め音楽への夢を捨てることになったのに、だ。

そしてこの左肘の不具合で生じた身体の数々の不具合の為に、どうしても気持ちの整理がつかず、事実を確認しようとこの接骨院へ電話をかけて尋ねてみた。2003年夏の事だった。インターネットを使って地図情報から、当時治療してくれた接骨院を発見した。

浜松市の永田接骨院というところだった。30年以上前のことなのに、そこは奇跡的に営業を続けていた。ただし代替わりしていて、当時治療したのはこの方の父に当たる方だったらしい。

 

電話口に出た方は、「その時でしたら、施術したのは私の父ですね。当時の診療記録は年数が経ちすぎているので残っていませんが、伺った内容では接骨院、ほねつぎでは元来骨折の治療は出来ないので、骨折、しかも複雑骨折が解ったらすぐに他の整形外科病院で手術をするように案内することになっています。なぜそれを父が施術したのかは分かりませんが、ご両親の希望なしには絶対に施術はしないはずです」

 

結局のところ、私の両親には病院に転院させて私に治療を受けさせる金がなかったのだ。それでも整復師に「出来ない」と言われるものを懇願するなんて、親となった私では考えられない感覚だ。本当に自分の子供だと認識していたのだろうかという疑いすらかけたくなった。本当に親なら「いくらかかってもいいから、どこへ連れて行ったら治してくれるか教えてくれ」と頼むはずだろう?

 

もちろんこの治療がうまく行くはずがなく、更には中学校二年生の夏にたまたま柔道で右肩を怪我し、治療で尋ねていた鍼灸師の指摘があるまで私の左肘に起きていた不具合には、気づくことが出来なかった。この時に左肘関節の修復手術を受けるまで、関節の接合が不完全なまま放置された為に、私の左肘関節は大きく変形して、修復手術を受けて尚も一生伸びない曲がらない物になってしまった。55歳となった今では、関節の変形から生じる左腕の麻痺も進行し、更にこの肘を庇った動作が習慣付いてしまったために引き起こされた腰のヘルニア、そして脊椎に変形が生じて心臓へ負担が大きくなり、元々脚ブロックのある心臓が心房細動を起こすようになってしまった。これでは末期がんの母と私のどっちが先に死ぬかの争いにも、成りかねない。そんな身体の状態なのだ。

  

この左肘の骨折で、私以外の家族は“運命共同体”となったことが、その後の家族として大きな影を落とすことになったようだ。この肘関節の複雑骨折は、私以外の3人が引き起こした「共犯の犯罪」と言っても良いかも知れない。この肘関節の障害は、彼らには「無かった」ことにしたい出来事で、認めたくない出来事なのだろう。

こんな状態の肘関節は、同じような怪我をお持ちの方ならすぐにご理解いただけると思うが、天候の変化、体調の変化で酷く痛みだして動かなくなることすらある。でも両親は私が痛がると聞こえないふりをして、何の反応も示さない。もちろん骨折をさせた張本人の弟も私の身体の痛みには、何の反応もしない。私が左肘の骨折で野球を諦め音楽まで諦めたのに、私が肘の痛みを口にするたびに弟は私が中学1年の時に野球部を途中で退部したことをあげつらった。その退部すら私が自分の左腕に自信を失ったためだというのに・・・だ。

 

中学1年の時に入学後すぐ私は野球部の門を叩いた。小学校卒業時に身長が143センチしかなかった私は体力的にも不利で、練習もすべてが遅れ気味で居残り組になることも多かった。

そのある時に先輩から不意打ちの“仕打ち”を受けたのだ。練習試合中に外野で後ろにこぼれたボールを拾う役をやっていた時に、グラウンドの端で談笑していた上級生から何の予告も無く全力投球のボールを後方から投げつけられた。ボールの呻る音で直前に気づき、グローブで捕球出来たのだが、あまりの近距離だった為に捕球した衝撃で、その当時まだそれほど障害の無かった左肘が、捕球後に動かなくなってしまった。

これは、身体の小さい新入生が練習についていくことに自信を失わせるには充分すぎる出来事だった。私は翌日退部届を出して、野球への夢を捨ててしまった。練習中動かなくなる左腕が怖すぎたのだ。

 

思い返すと私以外の「家族」の3人は、私に負わせた左肘の怪我の責任から逃れるために、無意識のうちに私を悪く言うようになったように思える。私が左肘の痛みを口にすると、無視を決め込む。あるいは話を逸らす。私がやったことないこともやったことにされ、批判される。これが常態化していたようで私をあげつらったことを後で指摘しても、そのことすら覚えていない。

 

顕著な事例がつい最近もあった。

一昨年末に息子の就職祝いで、父が弟の会社のスーツを買ってくれるというので、弟の会社へ行った時のこと、弟が私の息子へ「親父みたいに服の贅沢するなよ」と口走ったのだ。私は服に贅沢なんかしていない。ここ10年はまともに服など買ってはいない。それどころか私は息子に買ってやった服の中で息子が着ないものを、代わりに私が着ているような状態だ。それ以外は仕事に出かける為の服が破れたりしたときに、古着屋で買い求める程度だ。それなのに「服に贅沢」とは。そのことを後日弟に確かめても、言ったことすら覚えていない。そうやって私を卑下することが常態化していたので、何を言ったかすらも覚えていないのだろう。それは批判が目的で事実であるかどうかは関係のないことなのだから。

 

つづく

 

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