幕張の風

So-netブログ「From Makuhari~幕張の風」から移転しました。 仕事のこと、ニュースのこと、音楽のこと、野球はMarinesと高校野球中心に書きとどめたいことを書いて行こうと思います。

追及して、見えたもの。

その時は、あっけなく訪れた。

平成31年3月3日、午後4時27分に、母は永眠した。ステージⅣの末期の胃癌が見つかってから1年10か月、腹膜に転移が見つかってからはたったの3か月、苦痛だらけ矛盾だらけの末期がん医療しか受けさせてやれない自分の情けなさに苛まされながら。 

 

前々週の週末に、父から「母の容体が思わしくない。顔を見せたいから帰郷の予定を早められないか?」との依頼に応じてすべての予定を2週間繰り上げて訪問した際に、病ですっかり小さくなった母の背中を擦りながら、もう既に言葉を発することが出来なかった母に、こう話しかけた。

 

「母さん、今まで心配かけてごめんな。もうしっかりやっているから大丈夫。僕を産んでくれてありがとう。」

 

母とは色々な事があったが、そんなことはこの期に及んでもう些末な出来事へと、私の中では変わっていた。それよりも幼少の頃から感じていた母のぬくもりへの懐かしさが、私の中でどんどん大きくなるのを感じていた。それがこの帰省を後押ししたと言って良い。妻も「お母さんに会っておいた方が、あなたも後悔しないと思うわ。」と、金銭的な面で帰省を躊躇う私の背中を押してくれた。 

 

母の、目前に迫った最後の時に対峙してからは、もう忘れ去っていた些細な母との日々の出来事が、本当にたくさん思い出された。幼い頃、団体行動の中自分勝手に単独行動をした揚句、先に麓まで下りていた私を、捜索に協力してくれていた多くの人の前でビンタで張り飛ばした母、中学3年で千葉の伯父のところに下宿していた時、高校受験前には1か月傍に居てくれた母、高校1年の吹奏楽部の定期演奏会に、仕事を休んで会場に足を運んでくれた母、高校2年の夏、左肘関節の再生手術を受ける私を見守ることが心細いと訴える母に、市川に住む母の兄に来てもらえば、と提案した私にその通りにしてくれた母、高校の卒業式にも出席し、大学の入学式にも来てくれたは良いが「一人で(渋谷から)帰れない」と新入生歓迎の行事に誘われている私に一緒に帰ってくれと懇願した母・・・。

頑固で意固地なところは、私も受け継いでいるから分かるが、それで私を傷つけるようなことも何回もしたことは確かなのだが、友人に「一卵性双生親子」と言われ笑われるほど似ている私を、母が大切に思ってくれていたことには違いが無いのだ。

 

いつかは母に、「あなたの息子で、幸せでした」と伝えたかったのだが、言葉になったのは「産んでくれてありがとう」だけだった。それでも私の言葉を聞いた母は、言葉には何も出来ないが、目にうっすら涙を、浮かべた。

 

親と言うのは、そういうものなのだろう。離れていてもいつも我が子の身を案ずるものだ。それは自分が親の身になって初めて知ることが出来た。

父から帰省を急ぐよう連絡を受ける2週間ほど前に、父から「(母が)あまり永くはない」とメールをもらった時に、その時はいったん自宅に戻っていた母と、電話で話が出来た。それが母と出来た最期の会話だったのだが、その前にいつ母と話をしたかを思い出すと、私がまだ加賀に居た頃まで遡ってしまうような状況だった。

母は、加賀の温泉旅館を引き払いタクシー運転手として復帰したことも、自宅を引っ越ししたことも私からの手紙でしか知らなかった。「今は元気なのかい?お金は困ってないかい?○○さん(妻の名)の身体は大丈夫なのかい?」と、私が母の容体を案ずる質問をする暇もないほど次々に問いかけてきた。

実家に電話をしても繋がらないことが多く、それですぐかけるのを止めると言うことを繰り返していた自分を、とても後悔した。もっと何故母に、話をしてやれなかったのだろう。

自分の胸に残っていた蟠りに拘って、何度も繋がるまでかけることを止めてしまっていた私の心の狭さを、責めた。火葬が終わり母の遺骨を抱いた時に。

(つづく)

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