京都。
京都は、私と何の縁もゆかりもない土地でした。そこへの転職が決まった経緯は、偶然と必然の絡み合いとでも言いましょうか、何とも言えない出来事の積み重ねの結果でした。
でも私の、今のどん底ともいえる状態への入り口は、紛れもなくこの頃の一連の出来事がきっかけでした。
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大学を中退し、色々なアルバイトをしながら卒業した夜間のデザインの専門学校。
卒業しても就職なんて当然なくて、アルバイト生活の延長。
最初の結婚を機に、住宅営業をやってみますが、ここで事故に遭い腰を痛め働けなくなって、再び食い扶持を探して就活していた時に辿り着いた、金貸しの世界。
それでも、それまでは忌み嫌っていた金融の世界にもその存在価値のあることに気づいてから、この業界を天職と感じていました。
そんな私の当時の目標は、今の貸金業協会からあと2回の転職で”上場企業”の社員となって、自分の仕事がより多くの人の生活に、意味のあるものと出来るようにすること・・・でした。
貸金業協会から次の仕事への転職は、きっかけは新聞広告でしたがステップアップにはもってこいと思える仕事へのチャンスを手にしました。個人信用情報機関への転職の機会を、掴むことが出来たのです。個人信用情報機関ならば、次のステップ(金融業の上場企業への転身の可能性)も何とか切り拓けると考えましたし。
貸金業協会を退職時に、事務局長に伝えた退職理由は、そのまま「個人信用情報の整備を通じて消費者信用産業に貢献したい」でした。
しかしこの事務局長には、私の退職には異存はなかったものの、思いっきり後ろ足で砂をかけられました。若い頃の私は怖いもの知らずのお人好し。正しければ何でも通ると思い上がっていましたね。この事務局長はもう年も年であんまり仕事をちゃんとしない人だったので、代わりに相当私が出しゃばってしまったために、この「ここを終の棲家の仕事にしよう」と考えていた事務局長には私はたいそう危険な人物に見えたようで、貸金業協会の最高の実力者である会長に私の「無いこと無いこと」を吹き込まれ、私はこの会長だけには非常に悪いイメージを残して、転職することになってしまったのでした。
もちろん、他の貸金業協会の理事の方は私の味方でしたが、この会長を敵に回すと、他の誰も反論出来ないほどの、実力者だったのです。船橋市で質屋と貸金業を営んでいた会社の社長さんでしたが、この事務局長に私のデマを吹き込まれてからは、会長は私とまともに話もしてくれなくなってしまっておりました。
それでもこれが次のステップへの最大の懸念となるとは、この時には考えてもいませんでしたが。
私の転籍した個人信用情報機関は、当時は業界ごとに分かれていた個人信用情報(銀行は全銀協、信販系はシー・アイ・シー、消費者金融は全情連)の括りから離れて、銀行でも信販会社でも消費者金融でも加入して情報を登録・利用が出来る「全業界横断型」と言われる日本唯一の企業、セントラル・コミュニケーション・ビューローという会社でした。
この会社を選んだ理由ですが、私が貸金業協会で多重多額債務者の救済更生業務に従事していた時、「この多重債務者を生み出す原因は何だろう?」と考えて思い当たったことが、個人信用情報の未整備・不完全利用ということ。
またクレジットカードや車のローンの支払いに困って、その返済資金の為に消費者金融に駆け込んでも、消費者金融会社にはシー・アイ・シーの信用情報を照会出来ないので、信販でカードが何枚も発行されていたり多額のオートローンを組まれていても、それが分からず「まっさら」で何の借り入れもない良客に見えてしまうのです。
これでは、正常な与信判断は絶対に出来ません。
この信用情報を全業態型に切り替え、すべての信用情報を銀行、信販、消費者金融などの業態を問わずに与信時に与信する企業が照会・利用出来る状況を築きたい・・・それがこれ以上多重・多額債務者を増やさない為に必要なことだと、私は考えておりました。
そう考えると、すべての業態の信用情報を扱うセントラル・コミュニケーション・ビューローは、多重多額債務者を増やさない為の最適解だと考えたのです。
この時の私の年齢は、28歳から31歳でしたから。
その仕事を通じて、元日経新聞の記者でクレジット会社へコンサルタント業務を主に行っていた岩崎和雄さんと出会うこととなりました。岩崎さんは実はこのセントラル・コミュニケーション・ビューローの設立に関わった方。岩崎さんの主張する「スリーローンリミット」(一般の消費者が健全に利用できる無担保無保証の借り入れは3件が限界ということ)や、個人信用情報が銀行・信販・消費者金融に分断されている問題点への指摘は、私にはものすごく腑に落ちるものでした。
研修会にゲストとして度々岩崎さんを招いていた関係で、同じ研修会で講師を担当する私の話も岩崎さんには聴いていただいており、その考えが相通じるものであることも手伝って、私は岩崎さんには大変懇意にしていただけるようになっておりました。
しかし、セントラル・コミュニケーション・ビューローでは、貸金業協会よりもっと酷い、社内いじめに苦しむことになりました。業界内でもかなり若いうち(29歳)に課長職を拝命したり、「悪目立ち」するようになっていたのでしょう。
セントラル・コミュニケーション・ビューローでは、加盟する企業(信販会社や銀行系カード会社・消費者金融など)が持ち回りで役員などを担当する人間を送り込んでいましたが、もう少し経営の独自性を高め、更に拡大展開をしよう・・・と、専任の社長を置くことになり、その初代にクレディセゾン出身の渡辺隆氏が就くことになりました。
この渡辺氏に、着任当初は私も「お前はセンスの良い奴だ」と評価され、非常に気に入られておりました。
しかしそれを快く思わない方は、当時の私が考えるよりはるかに多かったのです。加えて私もまだ未熟でそういう方々の気持ちや対応の仕方などがまったく理解出来なかった為に、私を快く思わない方々にあっという間に渡辺氏に、私が口にしていない渡辺氏への不満や批判を吹き込まれ、それを反論することさえままならずに、社内でほとんど閑職にまで追いやられる羽目にあってしまいました。
これも元はと言えば、私が渡辺氏に歯に衣着せぬ「暴言」を吐く事も日常茶飯事だった為に、揚げ足を取ろうと考えれば簡単だった事もあったのでしょう。当時、初のプロパー社長となった渡辺氏には、社内のほとんどの管理職がイエスマンとなった中でも面と向かって平然と反対意見を述べたり、愛煙家であった渡辺氏に「社内禁煙」のプラカードをもって社長席前まで詰め寄るなどという、かなり破天荒なことを平気でやっていましたので、今思い返せば自業自得とも言える状況でした。
ほとんど新しい仕事が出来ない状況に置かれてしまいましたが、当時私は社外にもかなりの人脈が出来ていましたので、それを辿って金融・クレジットの上場企業へ転職し、次のステップへ進もうと考えて水面下でアプローチを始めました。
しかしここで貸金業協会時代の会長さんが最大の障壁となり、どれも全く先に進まなくなってしまったのです。
話がまとまりそうになるとしばらく音沙汰がなくなり、やがて担当の方から「申し訳無いですが、このお話は…」という流れを何度も繰り返してしまうようになってしまいました。相手先の企業では私の経歴は分かっていますから、入社前に「どんな人物か」を、この会長さんに確認したのでしょう。その行為そのものは受け入れる会社としては当然のことですが、その得られる情報は、すべて「事実無根」だったのですけれど。
ただ、捨てる神あれば拾う神あり、です。
岩崎さんが私の苦境を知って、「京都のある企業でクレジットカードを新しく発行したいと考えている。ぜひ、君の知恵と経験をそこで生かしてくれないか」と、声をかけていただけたのです。
その会社はニッセンという通販の会社。
当時は「みてるだけ」というテレビCMで売り上げを伸ばし勢いのある企業でしたが、ハウスカードを発行することでこれまでの顧客を更に囲い込み、また並行して行っていた貸金業の延滞率の高さも悩みの種で、これを一気に解決して欲しいとの、有難すぎる「縁談」でした。
これまでの人生で何の縁もゆかりもない京都という土地。その頃生まれたばかりの息子の成長も考え購入したマンションへの入居も控えていましたが、それをキャンセルしこの仕事に賭ける形で、京都へ転勤することとなったのでした。
当時の妻の実家(宝塚市)へ1994年の年末に帰省していた私は、1995年の三が日に震災前の神戸・三宮を訪れていましたので、あの震災は本当に心を痛めました。ほんのちょっと前、あんなに平和だったところが、いっぺんに景色が変わってしまって…。
更にその年の3月に起きた地下鉄サリン事件。オウムの犯人にサリンをまかれた地下鉄千代田線の電車は、なんと私が当時住んでいた北松戸から飯田橋まで通勤に利用していた電車と同時刻のものでした。もし、私がセントラル・コミュニケーション・ビューローを退職していなければ、私はもうこの世に存在していなかったでしょう。そう考えると、ニッセンへ転職となった流れが運が良いのか悪いのか、分かりませんが。
ちなみに、岩崎さんも渡辺氏も、若くして亡くなられ既に故人となっております。寂しい限りです。
またニッセンも私の在籍当時は地場の和服を中心に取り扱う販売店から発展した通販会社でしたが、創業社長の死やその後の通信販売業界の不調などもあり、現在は通販部門はセブンアイの傘下となり、クレジットカード事業は当初外資へ売却された後に現在では新生銀行とニッセンホールディングスとの共同運営体制となっております。