幕張の風

So-netブログ「From Makuhari~幕張の風」から移転しました。 仕事のこと、ニュースのこと、音楽のこと、野球はMarinesと高校野球中心に書きとどめたいことを書いて行こうと思います。

擬人化。

このブログでは、以前金貸し、今パソコン修理屋の営業とお話しております私の“素性”ですが、習志野高校卒業後、さだまさしの後輩となる大学へ入学し、中退してしまいました。その後、実は私、こんな学校を卒業しています。


この学校で、インダストリアルデザインの勉強を真面目に2年間、(夜間ではありますが)60名いた当時の二部(夜間部)の仲間も卒業時にはたったの3名という難関(?)をくぐり抜けて無事卒業したにも関わらず、デザイン関係の仕事は就職活動で見事玉砕し、大学中退・専門学校夜間部卒業という学歴では、バブル絶頂ちょっと前の超氷河期の就職戦線を勝ち抜けるはずも無く、中途採用で拾われた会社を起点に、幾度かの転職の末に消費者金融業界へたどり着いてしまいました。

・・・なんて思い出話は今回はどうでも良く、やはり一時はデザイナーを目指した位ですから、こういったデザイン系の話題には関心があります。(これだけの為になんと長い前振りでしょう)

「怖い歌舞伎顔」は、なぜ目立つ~ホンダのバイクに見る“ジャパンクール”の本質(日経ビジネスオンライン
http://business.nikkeibp.co.jp/article/tech/20070122/117429/

「デザイン」って聞くと、普通の方はなんとなく変わったデザイン、目で見て美しいデザインを考えるのがデザイナーってイメージがあると思います。でも、そういったのはイラストやポスターなどのグラフィックデザインと呼ばれる世界と、一部のファッションデザインのデザイナーぐらいで、私の学んだ工業デザインは地味も地味、マリーンズの清水直行か工業デザインか・・・というくらい、裏方に徹するような仕事です。みてくれの良さを考えるのもありますけど、コストや手間の制約の中から、「とりあえず恥ずかしくない程度の形にしておけ」というのが、私がデザインを志した頃の工業デザインの世界の大多数ではなかったか、と思います。

それと、工業デザインでは、どんなに見た目格好が良くても、使いにくくては意味がありません。また、同じ形であればどのくらいの大きさ・どんな素材が良いのか、そういったものをひとつひとつ検証を重ねて形を作って行くのが工業デザインの世界です。ただ、そういう使い勝手を突き詰めて行くと、必然的に美しい姿にたどり着いたりするものではあるのですが。

現在の工業デザインの世界では、ある程度メーカー(製造者)もデザインの重要性が認識されてきており、社内でのデザイン部門の地位も以前よりはかなり向上しているようです。工業製品でも「あ、これ中々良いデザインしてるな」って思えるものが増えてますしね。

今回の、日経ビジネスオンラインで取り上げていたバイクデザインも、デザインの重要性をメーカーがよく理解しており、その上でデザインのほかの重要性に気づいて、もう一歩踏み込んだ取り組みをしている・・・というお話です。バイクの「顔」のデザインを、視認性を向上させる重要なファクターと捕らえて、ワザと“怖い顔”をさせているそうです。


バイクは元々、「速さ」=「強さ」=「怖い」という思考から、迫力のある、精悍な顔のデザインが多いです。でもそのレベルだけで留まっていれば、それは単なる“直感”だけのデザインに過ぎません。そこで、どんな顔のデザインにすればより、他の人からの視認性が高まるか、実験と実証を繰り返しながらバイクの顔を突き詰めて考えたデザインが、「FACE」と言う名の試作車です。

確かに、これは「強面」ですよね(リンク先の写真をご参照ください)

人間は、自分へ危害を加える可能性の高い「怖い顔」のものを、身を守る為にも早く見分ける特性があるそうです。そう考えると、怖い物に対する視認性が高くなるのも極めて自然なことなのでしょう。それを利用してバイクも“怖い顔”にすれば、バイクの視認性が高くなる、という理論も、このホンダの設計チームの言うとおりかも知れません。

こういった“擬人化”とも言える発想は、日本独自のものである、とこの記事を執筆された川口盛之助さんが書かれておられますが、私はそれを読んで思わず「その通りだなあ」と感心してしまいました。

欧米ではキリスト教の信仰している国を中心に、人間を神の産物として神聖化してしまいがちです。翻って日本は、宗教意識も希薄で、神という概念も、“八百万の神”なんて考え方があるくらい、モノにでも植物にでも何にでも、“神様”は宿ってしまうと考える国民性です。だからこそバイクを人の顔に模してみたり、人間型のロボットを作ってしまったり、と言ったことが発想が出来るのでしょう。

日本人はよく、「人真似ばかりで独創性がない」、などと日本の文化や日本人の能力を、日本人自身が必要以上に低く見るきらいのある国民性ではあります。
しかし、日本社会・日本人の、万物に神仏が宿っていると考えるような、モノと人間との「敷居の低さ」は、「マンマシンインターフェース」を大きく改善出来る可能性に繋がるかも知れません。

今後よりいっそう進むであろう技術革新の波に乗り遅れそうな一般の人々と、新技術との橋渡しをする為に重要な役割を持つのは、実は日本人だとしたら、それはとても素敵なことですね。本当にそうなって欲しいな、と思います。

今からまた、デザインの勉強しなおそうかな?(無理無理!)