幕張の風

So-netブログ「From Makuhari~幕張の風」から移転しました。 仕事のこと、ニュースのこと、音楽のこと、野球はMarinesと高校野球中心に書きとどめたいことを書いて行こうと思います。

生と死。

このところ、“人の死”について、考えることが多くなりました。

自分が年をとったのもあるんでしょうが、自分の人生を、どう終わらせるのか・・・そんなことに、今私の関心が集まっています。実際には毎日の仕事に追われるばかりなんですけど。。。

私は以前に過労で勤務先で倒れたことがあります。その折に当時の上司から厳しく言われたのは「いくら能力があって仕事が出来ても、自分の“スペア”を用意出来ないようでは、管理職失格だぞ」ということです。要するに、自分に不慮の事故があった時に、バックアップ出来る体制を作らないようでは、「本当の組織人」では無いってことです。

今がどうか・・・って言われると、微妙ですね。ブログも放置してしまうほど仕事に追われていますし、と、いうことは「自分の代わりになる人(または組織)」が無いから、私は休めない訳で・・・。

言うは易し、行なうは難しで、中々難しいです。それでも、「私が明日死んでも会社が、組織が止まらない体制」を準備することも、私の仕事の一部なのですよね。


最近、「死」について、再び強く意識するように、なりました。

人間には、“二つの死”があると。

ひとつは、“肉体の死”です。これは、誰もが逆らえないものですよね。肉体はいつか衰え、必ずその終わりを迎えます。人により、早い・遅いはあるでしょうが・・・。

もう一つは、“精神の死”です。

こちらの方は、目には見えないものだけに、本当は死ぬことは無いのかも知れません、現代の人類の科学力では調べることも確認することも出来ませんから。

「我思う、故に、我在り」という、フランスの哲学者デカルトの言葉の意味は、本当の所は私は良く分かりませんが、私自身はこう解釈しています。

人間は、考える(=意思を持つ)ことで、初めて「人」となる

肉体は、その寿命が尽きても、肉体と共に育まれた“精神”は、果てることが無いのではないか・・・そう、考えています。肉体とは、あくまで自分の精神の宿る場所に過ぎない・・・と。

人間は、肉体が生を受け、肉体の成長と共に、その肉体固有の精神が宿ります。これは性格・人格のようなものでしょうか。これって、肉体とはまったく別個なものだと、私は思うのです。

肉体が生まれること、そしてそれが成長することで考え・信じ・愛し・思うことが出来るようになって行くのが精神ですけど、これは肉体が死んでも、意識のようなものとして、残って行くのではないでしょうか?

もちろん、肉体に終わりがあるように、この“精神”にも終わりがあって、何の不思議もありませんが。

それが、どのような形で残って行くのかは、私は見たこともありませんし、現代の科学で証明出来る訳でも無いので何とも言えません。でも、人が死んで肉体がなくなっても、その人の考えていたこと・信じていたこと・大切にしていたことなど、色々な思いというのは、私は肉体と同時になくなるとは思えないのです。

 

でも今は、そんな戯言ばかり言ってないで、「今」をしっかり生きなくてはいけませんね。

いつ死んでしまっても、後悔を残さないように。