幕張の風

So-netブログ「From Makuhari~幕張の風」から移転しました。 仕事のこと、ニュースのこと、音楽のこと、野球はMarinesと高校野球中心に書きとどめたいことを書いて行こうと思います。

礼。

日曜の朝、私は自宅で過ごしていればいつもTBSテレビのサンデーモーニングを見ています。

http://www.tbs.co.jp/sunday/

今日の最後のコーナー“風をよむ21”は、「礼に始まり・・・」というタイトルで、先日の大相撲・露鵬関の暴行事件を絡めて、昨今の日本の礼節について、取り上げていました。

http://www.nikkansports.com/sports/sumo/p-sp-tp3-20060716-61225.html

今回の事件は、国技である相撲ですら起きてしまった、相手を尊ぶ“礼節”を損ねた残念な行為です。では、その“礼”というのはどういう意味があるのでしょう?

日本の伝統的な武道である柔道や剣道に限らず、茶道・華道・囲碁・将棋も含めてすべてが相手や周囲の人に対する“礼”から始まります。この番組のインタビューの中で、ちょっとお名前は失念しましたが、ある剣道の道場の方が「剣道は礼がなくなってしまえば、竹刀で殴りあうだけのただの暴力になってしまう。礼があってこそ武道である。」というような内容のことをおっしゃっていて、私は非常に得心してしまいました。

武道は、直接的には他の人と技や能力・その強さを競うわけですから、相手より強くなることにはそれ相応の意味があります。相手より強い、ということはその相手より努力をした、あるいは才能があるということの表れですから、“勝つ”ということが評価されることは否定しません。ただ、武道として競うには、相手がいないと何の意味もありません。自分ひとりでやっていても、一体自分の努力や才能がどれほどのものなのか、知ることは出来ません。自分と同じように努力をしている(と思われる)相手と競うことによって初めて、自分の努力の度合いやレベルを知ることが出来るのです。そういうことに対する感謝の気持ちが、“礼”でありそれこそが武道の心では無いでしょうか?

茶道にしても華道にしても、もちろん一人では出来ません。人の中にいる自分、人に生かされている自分を知り、周りに対する感謝の気持ちを表すこと・・・それがやはり“礼”だと思うんですね。

こういった武道などに限らず、日常生活にも“礼”は存在します。

家庭でも職場でも、社会においても挨拶というのは紛れも無く“礼”であり、社会の中で生きている(生かされている)自分を認識し、周囲に感謝する気持ちが挨拶になると思います。

私は周りに挨拶するのは自然なこととして、自宅の周りで人に会えば“おはようございます”“こんにちは”“お願いします”“ありがとうございます”という言葉は習慣づいていて、何の疑問も持たずに言えます。自宅の周りであった人には自分から挨拶しますし、駅前の駐輪場で自転車整理の方がいらっしゃれば「お願いします」と一言伝えてから、駅に向かいます。外食していればウエイターの人に「ありがとう」と必ず言うようにしています。自分がそこに存在することに対して、何かをしてくれている人がいる、そういうことに対して感謝する気持ちの表れが、挨拶だと思うんですね。

自分の息子には口を酸っぱくして挨拶をしなさい、と言い続けていましたが、自分は今まで息子に対し、何故挨拶をしなければならないか、この説明がきちんと出来ていなかったと、今日この番組を見ていて感じました。息子はまだまだ、私のいる前では挨拶出来ているでしょうが、一人の時に、なんで挨拶が必要なのか、“心の教育”を行ってなかったように思います。自分の背中(私のやっていること)を見せる事だけで教育になると決め付けて、息子に対しての説明やきちんと“礼”の意味を理解させることをはしょったり、避けてきたように感じ、反省しました。

先述の露鵬関の件も、勝者である千代大海関が差し出した腕の理由を、差し出された露鵬関が理解していないのはもちろん、差し出した側の千代大海関すら、何故差し出すのかという“礼”の意味を理解していなかったことも、ここまで事が大きくなった理由の一つであるように、思います。露鵬関に睨みつけられて「何だコラ」と怒鳴った千代大海関の態度も、差し出す手が単なる虚礼に過ぎなかったことを表していると思うのです。

番組中では、日本の社会全体が“礼”を忘れかけていると出演者の方が言っておられましたけれど、まずは一人一人が礼を忘れないことです。自分から始めて行かなければなりませんね。