幕張の風

So-netブログ「From Makuhari~幕張の風」から移転しました。 仕事のこと、ニュースのこと、音楽のこと、野球はMarinesと高校野球中心に書きとどめたいことを書いて行こうと思います。

追突。

2021年、多くの方がコロナの影響で生活が激変してしまったであろうこの年ですが、私はそんなことより6月25日に起きたこの事で、生活が完全に狂ってしまいました。

 

makuhari-windy.hatenablog.com

JR船橋駅で同僚を降ろしてもうちょっとで自宅に着くという、国道357号線の検見川神社入口交差点で信号待ちで停車していたところ、後続車に追突されました。

 

加害者は居眠り運転でした。

 

信号待ちでルームミラーに目をやった私は、まったく減速しない後続の白色の軽ワゴン車が迫って来る姿を目にして「ヤバイ、ぶつかる。こんなスピードじゃまずい」と思いましたがもうどうすることも出来ず、そのままその軽ワゴン車は私のクルマに追突しました。

 

猛スピードで”タックル”された私のクルマは、どうしてそういう動きをしたのかは全く記憶にはないのですが、追突で受けた衝撃で前進はしたものの、無意識のうちにハンドルを切って、たまたま空いていた第2車線を進み私の前に停車していたクルマへの追突を避け、中央の緑地帯に前輪をぶつけて停車しました。

 

ぶつかる直前は、死を覚悟しました。

頭の中に妻の顔が真っ先に浮かびました。いつものように、明けで帰宅する私の為に朝食の準備をしているでしょう。このまま私がこの世を去ってしまったら、どうやって妻にこの状況を伝えようか・・・そんな事を思い描いて、追突の衝撃を受ける前のほんの数秒間はそれが私の頭の中を支配していました。

 

ぶつかった衝撃は相当なものでしたが、奇跡的に私は頭部も胸部もハンドルに強打することもなく、事故直後は意識ははっきりしておりました。普段から信号待ち停車時には常に前車との車間距離を2メートルは空ける習慣が役立ったのと、たまたま第2車線が空いていた幸運もあり、無意識のうちですが右へハンドルを切って前のクルマにさらに追突することを避けたので、結果的に私の身体への衝撃を和らげる結果につながったようです。

 

また、子供の頃にやっていた柔道で鍛えた身体も、役立ったのでしょう。自分のクルマの後部座席がほとんど潰れてしまった状況でも、ハンドルには頭部も胸部もぶつけることはなく、両手と首の周りの筋肉を硬直させることで、運転中と変わらないそのままの姿勢を衝突後にも維持出来ておりました。

 

クルマが停止してから、まずは妻に今の状況を伝えなければ・・・と思い、警察にも救急にも発信する前に、妻に電話をしました。

 

「もうちょっとで家に着くところで、追突された。これから病院に救急車で運ばれると思うけれど、大丈夫だから心配しないで」

 

妻にはこれだけ伝えて、電話を切り、その後救急へ電話しました。

その時に加害者の方が私に声をかけて来ました。

 

「大丈夫ですか?申し訳ありません。」

 

私は心からストレートに言葉が出てしまいました。

 

「大丈夫な訳ないでしょう?今、救急に電話しました」

加害者の方は「私は警察に連絡します」と言って自分のクルマのほうへ移動したようですが、私はそのあとちょっと意識が混濁したようで、この前後の記憶があまりありません。

 

救急車が着くまで、そんなに時間はかからなかったと思います。でも、この道路、早朝でも幹線なので大型車をはじめ多くのクルマが通ります。

後部が大破して動けない私のクルマに、邪魔だ、どけ!とばかりにクラクションをけたたましく鳴らしながら何台もの大型車が、動けなくなって第二車線に停まっている私のクルマを回避しながら通過して行きます。

大型車のマナーって、最近本当に悪いですね。私が今の仕事(タクシードライバー)に就いた2014年頃はこんなに酷くなかったはずです。

ラクション鳴らされたって、後部が大破したらクルマは動かせません。それにこっちは被害者ですよ?ただ信号待ちで停車していたところに、後続車が居眠りしていて突っ込まれただけなのに、何台もの大型車にけたたましく鳴らされるクラクションには、本当に腹が立ちました。

「ふざけんな、お前が追突されたらこんなことされてどう思うんだ!」

そんな想像力も欠けた人が多数を占めるようになった現実を突きつけられたようで、事故後の衝撃で動かない身体が余計に重く感じられました。

 

救急車はすぐに来たものの、私を受け入れる病院が中々見つかりません。到着した救急隊の方に私は体温をすぐに測定されましたが、38度以上の発熱があり、救急隊が受け入れ先を探し問い合わせをしても、発熱した患者は受け入れ出来ないということなのか体温を救急隊が伝えると即座に受け入れ拒否をされているようでした。

でも、これってどうなんでしょうね?事故の後だと伝えているのに、発熱で受け入れ拒否って、おかしくありませんか?私はその時、こんな状況で受け入れ先が見つからずに、亡くなってしまった方も多くいらっしゃるんじゃないかと、そんなことを考えてしまいました。

 

そんな中でもある病院が私の受け入れにOKを出してくれましたが、そこは私にとっては絶対に行けない病院でした。母校・習志野の後輩が麻酔ミスで亡くなってしまった習志野第一病院。この件で昭和60年夏の甲子園は、母校は甲子園への途を絶たれたのです。そこにはどんなことがあっても行きたくはありません。救急隊の方に「そこだけは行きたくない」と告げて、改めて受け入れ先を探しました。

 

そこで私は、以前に右手人差し指をミキサーでカットしてしまった時に搬送された病院を思い出し、そこの病院を提案すると、受け入れ可との返答がありました。

何とか搬送先が決まり、その病院でCTスキャンまで行い、脳や神経系に重篤な損傷はないことは、確認出来ました。でもここは、初期治療はやってくれますが、命に係わる重傷でない限りは、その後は入院させてくれないんですよね。CTで神経系に重大な損傷もなく、また大きな外傷もないことから、私はそのままいったん帰宅して、改めて他の病院で治療を受けるように、指示されました。

 

救急隊から連絡を受けた妻が、すべての検査を終えた私を待合室で待っていてくれました。

こういう事態で、誰かが待っていてくれる・・・こんなに嬉しいことはありませんね。

私は妻とタクシーで自宅へ帰りました。

とりあえずは死ぬこと無く自宅に帰ったことが、一番の幸せでした。早朝の事故だったので、こんなに色々あった割には、帰宅した時はまだ午前10時を回ったところでした。

 

その後は、治療の為の病院探しです。この日は金曜日でしたが、大きな病院であればほとんどは午前中で診療は終わってしまいます。

警察の方からは、「加害者は任意保険に加入しています。加害者が連絡を取れば加害者の保険会社から連絡が入りますので、それを待って下さい」と言われましたが、午後1時を過ぎても一向に保険会社から連絡がありません。私は再度警察署の事故担当へ電話し、担当の巡査部長からは「それでは私から連絡をします」と言われ、すぐにその巡査部長から折り返し電話が入りますが、「加害者に電話が繋がりませんので、また改めて連絡してみます」とのことでした。

 

その時点でもう午後2時を回っています。今日は金曜日なので週末にかかれば来週の月曜日まで治療を受けることが出来なくなってしまいます。私は警官から聞いた加害者の携帯へ直接連絡しました。

 

なんと、加害者はエアバッグの効果もあり無傷。自分の仕事先で事故報告を終えて仕事に戻っていたのです。自分の加入する保険会社に電話で事故発生連絡をするだけの事を、事故発生から6時間以上経ってもしていないという無責任さに、愕然としました。自分が居眠りで追突して他人のクルマを潰し、その人が救急車で運ばれたのに自分は日常に戻って平気なのか?と、強烈な怒りがこみ上げて来ました。

「あなたが保険会社に連絡をしなければ、私は治療を受けることが出来ないのです。それを分かっていて連絡をしていないのですか?」と加害者に問い詰めました。

「分かりました、連絡します」とだけ言って、電話を切られましたが、一切お詫びの言葉はありません。

電話を切って20分ほど後で、ようやく保険会社から連絡があり、私は自分の「主治医」とも言える現在通院中の病院への通院を希望し、保険会社へ伝えました。

これで、ようやく治療を受けられるようになりました。

クルマは無くなり、また当然運転出来る状態ではないので、病院へはタクシーで向かいました。この病院の医師は、私の左肘の状態も腰のヘルニアの状態も診ていただいていましたので、今回の事故で新たに右足の痺れが生じていることや、両手の握力の著しい低下、そして頸部の可動域の減少は、どの病院よりもちゃんと診ていただけることが、私にとってせめてもの救いでした。

医師からは「事故後ですので週末は安静にして、リハビリは月曜日から始めましょう」と指示され、治療は週明けからとなりました。

 

週明けからリハビリを始めますが、火曜日のリハビリ前に高熱と排尿障害の症状が出てしまいます。私は膀胱炎の既往症があるので、これはまた膀胱炎かな?と思いましたが、とりあえずリハビリ前に医師の診察を受けることにしました。

 

医師の診断は「腎盂腎炎」。抗生物質を処方されますが、解熱するまでこのご時世なのでリハビリは出来なくなってしまいました。それでも、この病院で良かったのは、もし他の病院で治療を始めていたら、発熱という症状だけで保健所へ連絡され、この腎盂腎炎の治療もすぐには受けることが出来なかったと思うのです。内科も整形外科も診てもらえ、しかもいざというときにすぐ対応してもらえるかかりつけの病院があって、非常に助かりました。

 

こんな事故は普通に考えれば「災難」ではあったのでしょうが、コロナで狂った医療の中でも適切な治療を受けることが出来た私は、やっぱり「不幸中の幸い」だったのでしょうね。

 

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