京都での仕事は、私にとって金貸しの世界に入ってからの「上がり」の仕事でした。
能登の実家にも4時間程度で帰ることが出来、当時の妻の実家とも近く関東に特に拘りのない私は、「ここでこれから生活して行くのだな」と考えておりました。
ところが、それを許さない事情が家庭内にありました。
当時の妻が、別エントリーでも何度も触れておりますがいわゆるヒステリー持ちのちょっとエキセントリックな人格で、何故か自分の実家に近い京都へ住むことを、異常に嫌がるようになりました。
「お前の仕事のせいでこんなところまで私は連れて来られて、迷惑だ。私はあんたが東京で働いていたから結婚したんだ。こんなところに来たお前と一緒にいる意味なんてないんだ」などと罵られ暴力を振るわれることも日常茶飯事でした。
こんな生活は、2年が限界でした。
この仕事から離れるのは、本当に辛かったのですが、私には高校大学と、「家族」が崩壊していった苦い経験があるので、自分の家庭を何とか維持したいという気持ちが、勝ってしまったのです。退職し仕事を捨て、妻との生活の継続を優先したのです。
大した仕事のアテもないまま京都を離れましたが、戻る際にはやはり地の利がある千葉の幕張でマンションを借り、しばらくは近くのドン・キホーテで3か月後に社員となる契約のアルバイトで働き始めますが、3か月後に「権利行使」せずに退職し、再び「金貸し」の世界に戻るべく転職活動を始めました。
その時にハローワークで、千葉では大手の消費者金融・パブリックの求人票を目にしました。
この会社は武富士のオーナーの親族が、退社・独立して始めた会社。その社長を慕って武富士の出身者が大挙転籍して管理職の90%が武富士出身者で占められていたところでした。パブリックの方々は、私が貸金業協会時代に法定研修会で講師をやっていたことや、協会の窓口で貸金業の登録事務の受付処理をやっていたことを知ってはいますが、協会の会長とのトラブルは知る由もありません。
ここに入社を希望すると、一も二も無く三顧の礼で迎えていただくこととなりました。
入社当初は、やはり貸金業協会時代に法定研修会で講師をやっていたイメージが強かった為か、貸金業法に関する教育係を命じられ、新入社員に対する集合研修を担当することになりますが、1年経った頃から当時の上司に「君を管理職に引き上げたいのだけれど、今の教育担当では上に空きがない。情報システムへ異動して管理職として会社に貢献して欲しい」とのことで、情報システム部へ異動し、支店長と同等の権限を持つ管理職を拝命しました。
当時のこの会社の情報システム部は、社内システムを支店ごとのスタンドアロンのオフコンから、全社で一括して顧客情報を保有・管理する本社集中システムへ入れ替えの作業を行ったところでした。
開発会社は日本ユニシス。この入れ替えたシステムはその後、Microsoftに表彰されるものですが、当時どこもやっていなかったSQL Serverを基幹データベースに使用し、ユーザーのインターフェースをWindowsNTで構築するというもの。
今ではユーザーの使う端末はUIも含めWindowsベースで何の不思議もないでしょうが、当時の業務端末でWindowsのUIを使ったものは皆無で、これを基幹系システムに使うというのは、相当に無茶なものでした。
当然のように稼働してから不具合の連続で、顧客データが何回もサーバー上から消失したり、日々の売上を入力し一日の営業成績を集計する「日報」を集計する業務が、新システムの稼働後ほとんど手作業による修正を経ないと数値が合わないという状況が続いており、またその解決策が全く見えない状況でした。
そう、私の管理職への「昇進」は、同時にこの暗礁に乗り上げたシステム開発を何とか正常化し安定稼働させる・・・そんな使命を帯びたものでした。
何とかシステムの不具合の原因を1つ1つ消し込んで、正常稼働にこぎつけますが当然のように徹夜・残業が続き在宅時間が短くなってしまい、京都の仕事を「捨てて」まで維持した「家族」に、軋みが生じてしまう結果と、なりました。
こんな状況では、通勤時間が30分で短いとは言え仕事を終えて帰宅出来るのが早くて22時前後。そんな私を息子は寝ずに(というより食事も入浴も済んでいないので寝られない)いつも私の帰宅を待っています。
とは言っても妻はパートで都内まで働きに出ているため、朝8時には息子は保育所へ預けられるので無理やりにでも6時過ぎには息子は起きなくてはなりません。
でも、私が帰宅した22時から食事・入浴を私と済ませるような状況では、就寝するのは日付が変わる頃になってしまいます。4~5歳で睡眠時間が6時間なんて、いくら保育所でお昼寝時間があっても、睡眠不足になるに決まっています。当然、風邪もひきやすくなり、その為か息子は扁桃腺が腫れて発熱し入院・・・という状況に、年に何度も陥ってしまうような状態でした。
2000年の2月には、それが月に2回もありました。それも私が帰宅すると「パパ、頭痛い」と言って息子がものすごく熱い身体で私に倒れ込み、そのまま私は家に入らず病院へ直行し息子はそのまま入院というような、異常な事態でした。
こんな状況で、身体の火照った息子を抱えながら私は妻に、息子の私の帰宅前の状況を尋ねるのですが妻は「私は悪くない」というばかりで息子が帰ってからどんな様子だったかを、全く説明しないのです。
こんな、普通に考えれば異常な状況がひと月に2回も起こってしまったことで、私は京都の仕事を捨ててまで維持しようとした「家族」を、諦めることにしたのです。
私にとって一番大切だった、息子の命を守るために。