幕張の風

So-netブログ「From Makuhari~幕張の風」から移転しました。 仕事のこと、ニュースのこと、音楽のこと、野球はMarinesと高校野球中心に書きとどめたいことを書いて行こうと思います。

もう一度

病の果て 痩せた背中の
固い指ざわりが 胸に突き刺さる
瞳に浮かぶ涙の意味は
もう聞こえない

 

セピア色の あなたに
届かぬこの声で尋ねてみる


幸せかい?


歩んだ時に 思いを馳せれば
そこに喜びがあるだろうか
ささやかな日々の1ページ
信じたい モノクロームの笑顔を
カメラの先の日々の 暖かさを

 

時の壁の向こうに この声が届くなら

 

ありがとう
あなたの息子に生まれて幸せでした

 

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追及して、見えたもの。

その時は、あっけなく訪れた。

平成31年3月3日、午後4時27分に、母は永眠した。ステージⅣの末期の胃癌が見つかってから1年10か月、腹膜に転移が見つかってからはたったの3か月、苦痛だらけ矛盾だらけの末期がん医療しか受けさせてやれない自分の情けなさに苛まされながら。 

 

前々週の週末に、父から「母の容体が思わしくない。顔を見せたいから帰郷の予定を早められないか?」との依頼に応じてすべての予定を2週間繰り上げて訪問した際に、病ですっかり小さくなった母の背中を擦りながら、もう既に言葉を発することが出来なかった母に、こう話しかけた。

 

「母さん、今まで心配かけてごめんな。もうしっかりやっているから大丈夫。僕を産んでくれてありがとう。」

 

母とは色々な事があったが、そんなことはこの期に及んでもう些末な出来事へと、私の中では変わっていた。それよりも幼少の頃から感じていた母のぬくもりへの懐かしさが、私の中でどんどん大きくなるのを感じていた。それがこの帰省を後押ししたと言って良い。妻も「お母さんに会っておいた方が、あなたも後悔しないと思うわ。」と、金銭的な面で帰省を躊躇う私の背中を押してくれた。 

 

母の、目前に迫った最後の時に対峙してからは、もう忘れ去っていた些細な母との日々の出来事が、本当にたくさん思い出された。幼い頃、団体行動の中自分勝手に単独行動をした揚句、先に麓まで下りていた私を、捜索に協力してくれていた多くの人の前でビンタで張り飛ばした母、中学3年で千葉の伯父のところに下宿していた時、高校受験前には1か月傍に居てくれた母、高校1年の吹奏楽部の定期演奏会に、仕事を休んで会場に足を運んでくれた母、高校2年の夏、左肘関節の再生手術を受ける私を見守ることが心細いと訴える母に、市川に住む母の兄に来てもらえば、と提案した私にその通りにしてくれた母、高校の卒業式にも出席し、大学の入学式にも来てくれたは良いが「一人で(渋谷から)帰れない」と新入生歓迎の行事に誘われている私に一緒に帰ってくれと懇願した母・・・。

頑固で意固地なところは、私も受け継いでいるから分かるが、それで私を傷つけるようなことも何回もしたことは確かなのだが、友人に「一卵性双生親子」と言われ笑われるほど似ている私を、母が大切に思ってくれていたことには違いが無いのだ。

 

いつかは母に、「あなたの息子で、幸せでした」と伝えたかったのだが、言葉になったのは「産んでくれてありがとう」だけだった。それでも私の言葉を聞いた母は、言葉には何も出来ないが、目にうっすら涙を、浮かべた。

 

親と言うのは、そういうものなのだろう。離れていてもいつも我が子の身を案ずるものだ。それは自分が親の身になって初めて知ることが出来た。

父から帰省を急ぐよう連絡を受ける2週間ほど前に、父から「(母が)あまり永くはない」とメールをもらった時に、その時はいったん自宅に戻っていた母と、電話で話が出来た。それが母と出来た最期の会話だったのだが、その前にいつ母と話をしたかを思い出すと、私がまだ加賀に居た頃まで遡ってしまうような状況だった。

母は、加賀の温泉旅館を引き払いタクシー運転手として復帰したことも、自宅を引っ越ししたことも私からの手紙でしか知らなかった。「今は元気なのかい?お金は困ってないかい?○○さん(妻の名)の身体は大丈夫なのかい?」と、私が母の容体を案ずる質問をする暇もないほど次々に問いかけてきた。

実家に電話をしても繋がらないことが多く、それですぐかけるのを止めると言うことを繰り返していた自分を、とても後悔した。もっと何故母に、話をしてやれなかったのだろう。

自分の胸に残っていた蟠りに拘って、何度も繋がるまでかけることを止めてしまっていた私の心の狭さを、責めた。火葬が終わり母の遺骨を抱いた時に。

(つづく)

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追及 その2。

息子の母親は、元々母には向かない人間だった。

子供が生まれたら変わってくれるのではと、そんな期待をした私が馬鹿だった。妊娠中「お前のせいで私は社会から脱落するんだ!」と膨らんだおなかをこぶしで殴りつけるような妊婦だったが、出産の瞬間に声にならない声で息子を抱き寄せ喜んでいた姿を見て、「やはり母親になると変わるんだな」と淡い夢を見ることは出来た。

しかし彼女は平凡な家事の連続では私以外にわがままが言えず、鬱積した気持ちのまま家庭外にはけ口を求めて他の男と会ったり、私の禁じていた喫煙も“仕事で外出中”に隠れて吸っていたりしていた。それでも私は自分が味わった「経験したことのない寂しさ」を息子に味あわせたくないが故、何とか夫婦関係の維持に腐心する日々だった。

そんな状態だから、生まれた息子に対して“よき母親”になることなど、あり得なかった。彼女は保育園からお迎えして自宅に帰っても、息子の世話は後回しで食事も入浴も私の帰宅を待つような状態だった。私が残業を終えて22時過ぎに帰宅すると玄関でずっと私の帰宅を待っていた息子が「パパ頭痛い」と、私に倒れ込んでくるようなことが、ひと月に二回もあった。それも二回とも息子は40度を超える発熱だった。私は帰宅後そのまま家に入らず病院へ直行し、そのまま息子は二回とも入院となったことで、「このままでは息子の命が危ない」と、二回目の入院の時に、私は離婚して息子を一人で育てる決心をした。

 その時に離婚の意向を両親に伝えると、母は「一人で子育ては大変だ、しばらく家で預かるから連れて来い」と言いだした。他にそんなに頼る当てもあるはずもなく、仕事をすべて育児優先にすることも難しかったことから、その時はその言葉に従ったが、後でそれがどれほど間違った選択だったかを思い知るとは、この時は考えもしなかった。

 

実は当時勤めていた会社の上司がとても信頼の出来る人で、更には私も息子を良く勤め先へ連れていったこと、そして日常的にヒステリーを起こしたうえで暴力をふるう私の妻の状況を逐次報告していたこともあって、本当はこの上司の家庭へ息子を預けたいと考えていたのだ。息子を実家へ預けた報告をすると上司は上司で、当然自分の元へ依頼が来ると考えていたらしく「なんだ、うちで預かったのに」と言ってくれた。実は私はこの上司が再婚したことを知らず、上司のお母さんに迷惑をかけると思い、お願いすることを躊躇っていた。もし上司の再婚を知っていたら、私は絶対に息子を実家に預けなかったはずだ。息子の近くに居たいし、何より両親より上司の方が安心だったからだ。

 

始めは両親も息子を大事に預かってくれていたようだ。まだ若かったのでまた子育てが出来る楽しみもあったと思う。

息子を寂しがらせないように、私は息子を実家に預けてから毎週金曜日の夜に夜行急行「能登号」で実家に帰り、日曜の夜に千葉に戻るという生活を半年以上続けた。ただこれは両親には不評で、「交通費も無駄だ。それにお前が帰ると(息子が)わがままで言うことを聞かなくなって困るから、3か月に一度くらいにしてくれ」と言われ、それでも私が実家へ戻るのを止めないと父から今度は強制的に実家へ入れなくされてしまった。

 3か月に一度に帰るようにしてから、弟の嫁が「能登で出産したい」というので、実家へ同居することになった。息子の使っていた部屋は明け渡すことになったが、この嫁が出産前は息子の相手をしてくれていたので私も「まあ、それなら良いか」と見ていたが、この嫁の出産後に事態が変わる。

生まれた子の世話で両親がかかりきりになり、息子の相手を全くしてくれなくなったのだ。

何も知らない私は、弟の嫁の出産後いきなりかかってきた母からの電話で驚いた。

母の電話の第一声が「お前は(息子が)可愛くないのか!」といきなり罵りから入るのである。私が「そんなはずないでしょう?なんでそんな事いきなり言われなきゃならないの?」と尋ねると、「お前は自分の息子が一人きりで可哀そうじゃないのか?」と言いだす。誰も息子の相手が出来ないというのである。

「え、おかしいよね?弟の嫁も居るし、そちらは親父もお袋もいるでしょ?」私がそう言っても、母はしかし聞く耳持たなかった。とにかく「直ぐ帰れ!」の一点張りで、その週末に実家に帰って愕然とした。

両親共に生まれた子供の世話ばかり。息子は父の趣味の部屋に置いてあるパソコンに一日向かっていて、食事と入浴、就寝の時だけその部屋を出ている状態だった。こんな状態で良いはずがない。

正直、弟の嫁の感覚を疑った。そうさせて平気な状態でいられる神経が理解出来ない。自分の子供じゃなければ良いのか。

 

息子は健気だった。生まれた赤ちゃんを弟だと思って、自分からちゃんと世話をするようになった。「おにいちゃん」と呼ばれてご機嫌で、色々なことに自信が出来たことは良かったと思うが、私の両親の対応は別問題だ。なぜ同じ孫で差別される必要があるのかと、この時本当に実家へ預けたことを深く後悔させられた。

 

当時私は、私の勤めていた会社が吸収合併で失業し、併せて息子の近くに居られるよう実家近くで仕事を探そうと金沢へ転居した。毎週実家へ帰ることは楽になったが、弟の嫁が出産しても帰らない。居れば私の両親から小遣いももらえるし、世話も楽だからだろうが、こちらはたまったもんじゃない。「孫差別」の状況も変わらない。私はとにかく早く自分で引き取りたかった。私の仕事が決まり東京で働くことになった際に、私は息子を連れて行くと言ったが、実家近くに住んでいた伯父に猛反対された。「(息子を)かぎっ子にしてお前は良いのか」と言われた。

父よりはるかに信頼していた伯父に言われたのだから、私は従うほかなかった。この伯父は、父の浮気が発覚し離婚問題となった際に、能登から千葉まで心配して飛んできてくれたような人だった。その時も、「お前ら二人がだらしないから子供がこんなにしっかりしてしもうて・・・。恥ずかしいと思え!!」と、私の前で両親をいさめてくれた。この時私は伯父への感謝の気持ち、そして理解者が居てくれたことでタガが外れて泣きじゃくってしまった。そのくらい、有難かった。そんな伯父も、もうこの世には居ない。

 だが、この伯父の反対の為に、私は大きな失敗をしてしまう。当時再婚をイメージして付き合いを始めていた女性と、焦って早く話を進めたくてそれとなく持ちかけてしまったのだ。すると、“本命”の人は離れていってしまった。慌てた私は他に可能性のある人に、再婚を前提に交際を申し込んでしまった。その後本当に私を落ちるところまで落とすような、悪魔のような酷い人間と。この人との交際開始当時から何度も「この人とは別れよう」と思うことがあったのに、やはり両親に預けるのはまずいと思ってしまったのだ。

 

実家に預けた時に、なるべく私を感じられるようにと使っていたタンスやおもちゃ箱はすべてそのままにしていた。タンスには息子が好きだったポケモンのシール、菓子パンを買うと1枚付いてくるものを新しく手に入れるたびに「次は、どこに貼ろうか?」と息子と一緒に貼っていた物だった。

そのシールを、父がすべて剥がし始めた。理由は「弟の子供がハイハイするようになって、触った時に汚いから」だそうだ。

触らなければ良いだけのことだ。そして触ったら手を拭いてやれば良いだけのこと。それなのに父は泣き叫ぶ息子を母に抑えつけさせて、シールを無情に剥がし続けた。息子を抑えている母と私が電話で話している最中のことだ。私は息子の泣き叫ぶ声を聞いて、実の父に、本当に殺意を抱いた。怒りで全身が震えた。それと同時に息子にすまない気持ちでいっぱいになった。こんな人に預けて父さんが悪かった・・・と。

 

息子を実家へ預けているときに、当然すべての息子の衣服も預けていたのだが、悪魔と再婚してから確認すると、無くなっている物がいくつかあった。そのうちの一つは、大きくなったら着せようと思っていたカシミアのセーターだ。かなり良いものだったが、良い色で息子に似合っていたので、奮発した。それが、無い。母に尋ねると「そんなの知らない。最初からなかったんじゃない?」と言う。いいや、あなたも親なら分かるだろう?子供に買ってやった服を忘れるはずなど無いじゃないか。しかも一着3万円もしたものだ。どれだけの思いで買ってやったか。それでも母は嘘をついた。おそらく弟の嫁が見つけて母に「これもらって良いですか?」と、尋ねたのだろう。聞く方も聞く方だが、あげる方もあげる方だ。

 

まだ息子が実家にいた頃、当時弟の住んでたマンションを引き払って引っ越しの話があった。弟の住んでいたマンションはバブル崩壊前に、ある企業が社宅として建てたものを、無責任なデベロッパーが安値で転売したものだった。専有面積が狭くて使いづらい上に、設備がそもそも賃貸用のレベルだ。私は当然購入前に反対したが、弟はおそらく当初から両親から支援を受けていたのだろう。「俺の給料じゃこれくらいしか買えないからこれで良いよ」と購入を決めてしまった。

弟はその後結婚するが、これがまた酷い嫁で借金をしまくって車を乗ったまま家出してしまった。その酷い嫁とは離婚し、その後私に大いに迷惑をかける今の嫁と再婚する訳だが、そうなるとこのマンションはこの新しい嫁には嫌な物件でしょう。住み替えたくなるのは無理もない。しかしこの物件は私の購入前に予想した通り、専有面積が狭く設備も劣悪、最寄駅からのアクセスも悪い為購入価格をはるかに下回る金額でしか売却出来なかった。それでも住み替えるとなれば、数百万単位での持ち出しは必須だ。

引っ越しの話を聞いて、私は不動産関連の仕事の経験もあるし知り合いも居るから買い換えのアドバイスをしようと考えたら、母は「県営住宅に引っ越しするだけだ」って言いだし、「お前は口出ししなくて良い」と私に言い始めた。私が「県営住宅は賃貸に住んでいる人しか入れないんだからそんな訳ないでしょう?なんでそんなつまらない嘘をつくの?」と母に言っても「県営住宅へ引っ越すんだ」としか言わずに黙り込んでしまった。何でこんな嘘を、信じたい実の親から言われなければならないのだろうか。おそらく、あの“塩漬け物件”を処分するのに必要な資金を援助してあげたのだろう、両親は。

弟夫婦はおそらく2回の子供の出産でうちの実家へ帰っていた時にもらっていた毎月の小遣いを貯金し、頭金は貯めただろうから、後の問題は物件処分の為のローン残債の返済だ。その援助をしたことを私に秘密にするために、見え透いた嘘をついたのだろうが、そんなことはこれまでの両親の行動から、して当然と考える私としては、お金を援助したことなどよりむしろ、私に「県営住宅へ引っ越す」などと見え透いた嘘をつかれたことの方が、ダメージが大きかった。実の親に、信頼する母にこんな嘘をつかれ、本当に情けない思いだった。

 

つづく

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追及 その1。

5歳くらいの頃だった。家族でドライブへ出かけて、リアシートでうとうとしていた時、経験したことのない寂しさが、心を支配した。前のシートで話をしている両親がぼんやりと、とてもとても、遠い世界の出来事のように、見えたのだ。

 

「この人たちは、僕の何なんだろう?」

 

うつらうつら聞いている“両親”の話が、遠くの方でざわついて聞こえてくる。

目覚めてから母に「僕は、どうしてここに居るのかな?ここに居て、本当に良いのかな?」と尋ねたが母は「何のこと?」と答えた。当たり前だ。私が見た夢のようなものの内容を、母が知る由もない。

でもその時感じたその私の感覚は、多分正しかった。それから多くの謂れのない親からの差別に、何回も苦しむことになるのだから。

 

昭和46年の夏休み初日に、今後の私の人生を大きく狂わせる事件が発生した。

私は夏休み初日の解放感とともに、私は子供部屋になっていた畳敷きの四畳半の部屋で寝そべって、「小学二年生」と言う月刊誌を読んでいた。弟は私が使っていた父のお下がりの勉強机に向かって、椅子に腰かけながら、椅子の四本の足の後ろ二本だけで立って、反対は机の端を両手で持って、グラグラとロッキングチェアーのようにして遊んでいた。その真横で私がいた。

そんな不安定な遊び方で、幼稚園児だった弟が姿勢を維持出来るはずもない。

弟はやがてバランスを崩して椅子ごと倒れてきた。そして椅子の背もたれを支える金具が、寝そべっていた私の左肘関節を直撃した。

激痛が私を襲った。高々小学二年生の判断力だ。何が起こったか分からず、泣き叫んだ。弟も倒れ込んだはずみで鼻血を出して、こちらも泣き叫んでいる。

 

「どうしたんだ?」父が大声を出して母とともに子供部屋にやってきたが、二人とも弟の方に向かった。いつもそうだったのだが、この時もおそらく両親は、私が弟に何かしたのかと判断したのだろう。完全な“濡れ衣”なのだが。そしてこの時も父は私に向かってこう怒鳴りつけた。

 

「泣くな、男だろ!」

 

こう言われると、私は泣き続ける訳には行かない。泣くを止めて必死に痛みに耐えた。

父は弟の状況を確認し、鼻血だけであることを確認した後で、やっと私の状況を確認しにやってきた。「脱臼しているかも知れんな」と父は言い、そして近所の接骨院へ連れて行かれた。今思い返すと面倒で嫌々ながら連れて行かれたように、感じたが。

 

接骨院ではレントゲンを撮影された後で、とてもとても長いこと、待合室の中で私は一人きり待たされていた。隣の施術室では何やら両親と整復師が話をしている。はっきりとすべてが聞こえる訳ではないが、「お金がないんだ」「このままここで治療を続けてくれ」と言っている父の声が、確かに聞こえた。

そして私はそこの接骨院で、左肘関節の粉砕骨折の「治療」を受けた。本当は浜松市にある病院へ転院してすぐに手術を勧められたにも関わらず。


当時はどうして転院させてくれなかったか理解出来なかった。もちろんその後私が成長してから何回も何回も母に問い質してみても、母は押し黙るのみ。私はこの時に生じた左肘の障害の為にその後、野球を諦め音楽への夢を捨てることになったのに、だ。

そしてこの左肘の不具合で生じた身体の数々の不具合の為に、どうしても気持ちの整理がつかず、事実を確認しようとこの接骨院へ電話をかけて尋ねてみた。2003年夏の事だった。インターネットを使って地図情報から、当時治療してくれた接骨院を発見した。

浜松市の永田接骨院というところだった。30年以上前のことなのに、そこは奇跡的に営業を続けていた。ただし代替わりしていて、当時治療したのはこの方の父に当たる方だったらしい。

 

電話口に出た方は、「その時でしたら、施術したのは私の父ですね。当時の診療記録は年数が経ちすぎているので残っていませんが、伺った内容では接骨院、ほねつぎでは元来骨折の治療は出来ないので、骨折、しかも複雑骨折が解ったらすぐに他の整形外科病院で手術をするように案内することになっています。なぜそれを父が施術したのかは分かりませんが、ご両親の希望なしには絶対に施術はしないはずです」

 

結局のところ、私の両親には病院に転院させて私に治療を受けさせる金がなかったのだ。それでも整復師に「出来ない」と言われるものを懇願するなんて、親となった私では考えられない感覚だ。本当に自分の子供だと認識していたのだろうかという疑いすらかけたくなった。本当に親なら「いくらかかってもいいから、どこへ連れて行ったら治してくれるか教えてくれ」と頼むはずだろう?

 

もちろんこの治療がうまく行くはずがなく、更には中学校二年生の夏にたまたま柔道で右肩を怪我し、治療で尋ねていた鍼灸師の指摘があるまで私の左肘に起きていた不具合には、気づくことが出来なかった。この時に左肘関節の修復手術を受けるまで、関節の接合が不完全なまま放置された為に、私の左肘関節は大きく変形して、修復手術を受けて尚も一生伸びない曲がらない物になってしまった。55歳となった今では、関節の変形から生じる左腕の麻痺も進行し、更にこの肘を庇った動作が習慣付いてしまったために引き起こされた腰のヘルニア、そして脊椎に変形が生じて心臓へ負担が大きくなり、元々脚ブロックのある心臓が心房細動を起こすようになってしまった。これでは末期がんの母と私のどっちが先に死ぬかの争いにも、成りかねない。そんな身体の状態なのだ。

  

この左肘の骨折で、私以外の家族は“運命共同体”となったことが、その後の家族として大きな影を落とすことになったようだ。この肘関節の複雑骨折は、私以外の3人が引き起こした「共犯の犯罪」と言っても良いかも知れない。この肘関節の障害は、彼らには「無かった」ことにしたい出来事で、認めたくない出来事なのだろう。

こんな状態の肘関節は、同じような怪我をお持ちの方ならすぐにご理解いただけると思うが、天候の変化、体調の変化で酷く痛みだして動かなくなることすらある。でも両親は私が痛がると聞こえないふりをして、何の反応も示さない。もちろん骨折をさせた張本人の弟も私の身体の痛みには、何の反応もしない。私が左肘の骨折で野球を諦め音楽まで諦めたのに、私が肘の痛みを口にするたびに弟は私が中学1年の時に野球部を途中で退部したことをあげつらった。その退部すら私が自分の左腕に自信を失ったためだというのに・・・だ。

 

中学1年の時に入学後すぐ私は野球部の門を叩いた。小学校卒業時に身長が143センチしかなかった私は体力的にも不利で、練習もすべてが遅れ気味で居残り組になることも多かった。

そのある時に先輩から不意打ちの“仕打ち”を受けたのだ。練習試合中に外野で後ろにこぼれたボールを拾う役をやっていた時に、グラウンドの端で談笑していた上級生から何の予告も無く全力投球のボールを後方から投げつけられた。ボールの呻る音で直前に気づき、グローブで捕球出来たのだが、あまりの近距離だった為に捕球した衝撃で、その当時まだそれほど障害の無かった左肘が、捕球後に動かなくなってしまった。

これは、身体の小さい新入生が練習についていくことに自信を失わせるには充分すぎる出来事だった。私は翌日退部届を出して、野球への夢を捨ててしまった。練習中動かなくなる左腕が怖すぎたのだ。

 

思い返すと私以外の「家族」の3人は、私に負わせた左肘の怪我の責任から逃れるために、無意識のうちに私を悪く言うようになったように思える。私が左肘の痛みを口にすると、無視を決め込む。あるいは話を逸らす。私がやったことないこともやったことにされ、批判される。これが常態化していたようで私をあげつらったことを後で指摘しても、そのことすら覚えていない。

 

顕著な事例がつい最近もあった。

一昨年末に息子の就職祝いで、父が弟の会社のスーツを買ってくれるというので、弟の会社へ行った時のこと、弟が私の息子へ「親父みたいに服の贅沢するなよ」と口走ったのだ。私は服に贅沢なんかしていない。ここ10年はまともに服など買ってはいない。それどころか私は息子に買ってやった服の中で息子が着ないものを、代わりに私が着ているような状態だ。それ以外は仕事に出かける為の服が破れたりしたときに、古着屋で買い求める程度だ。それなのに「服に贅沢」とは。そのことを後日弟に確かめても、言ったことすら覚えていない。そうやって私を卑下することが常態化していたので、何を言ったかすらも覚えていないのだろう。それは批判が目的で事実であるかどうかは関係のないことなのだから。

 

つづく

 

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2018年。

先程、1年ぶりの更新をしましたが、加賀から戻って多忙が続き、どうしても優先順位が下がってしまっておりました。

 

今年(2018年)1月に千葉に戻りましたが、タクドラ復帰後のドタバタの合間に息子の就職に伴う明石への入寮、その間に自宅も賃貸の更新期限に合せて転居した後は息子の正式引っ越しがあったりで、パソコンに向かう時間も取れないほどでした。

 

経済的には恐ろしいほどの薄給だった加賀の温泉旅館と比較すれば「高給取り」ですから、引っ越しに伴う経費削減効果もあって、この1年でだいぶ落ち着きました。悪魔との離婚裁判で(これは依頼した弁護士の力不足も原因ですが)蒙った借財で止めをさされ破産したは良いものの、その際に弁護士の不手際で残ってしまった所有するマンションの固定資産税の未納分の残債もどうやら今年いっぱいでようやく清算出来ますので、来年からは本当の再スタートになりそうです。

 

私も、まだまだ事業をやれそうかなとは思うのですが、しばらくは大人しく妻の夢の実現に協力しようと考えています。妻の元々の仕事を復活させて、それで悩める人々の助けに少しでもなれば・・・と。

 

そうそう、長年私の相棒だったシトロエンC3も、来年の車検を前に廃車になりました。走行距離も10万キロを超え、足回りもショックやブッシュ類の取り換えが必須であることと、タイベルも2度目の交換が必要だったり、何よりも以前にクレーム交換してもらったフロントガラスが、交換してもらった前のガラスより酷い状況になってしまい車検時には交換が必須になってしまい、これらで車検通すだけで50万以上の出費が見込まれるようになったので、廃車を決意したのです。今はトップページの写真の内装のクルマが、愛車です。久しぶりの国産車ですが、もちろん中古です(笑)

 

明日は、最近ハマっている“ザ・50回転ズ”のライブに妻と参戦して来ます。オールスタンディングに耐えられるのでしょうか?(笑)身体はあちこち痛んでおりますが、あと10年ぐらいは元気で生きられれば、良いですね。

 

ようやく満ち足りた生活を出来るようになれましたから。

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白タク。

何でも、“アプリ”や“Web”を媒介すれば、「新しいサービス」になるとでも、思っているのでしょうか?

 

ちょっと前にUberなどのライドシェア業者の日本進出断念で、ひとまず日本はタクシーサービスの品質は保たれたと思っていたのですが、また新手のUberもどきが出現しています。

 

crewcrew.jpなんでも、「“今までにない新しい移動手段”ではなく、昔ながらの日本人の生活の知恵である「“おもてなし”と“ありがとう”の循環」をテクノロジーによって拡張したプラットフォーム」だそうで。

 

このサービスの運用会社は、こちら。

azit.co.jpどちらにしても、立派なホームページですねえ。

ただ、内容が立派かと言うと、これで事業化して良く億の単位のカネが集まったなと思えるほどの、稚拙な内容です。これでも私は一度は起業した人間です。こんな未熟なプレゼンで公開するなんて、あり得ません。あ、これはプレゼンじゃなくてホームページですよね。こんな詰めの甘い内容で公開して恥ずかしくないのでしょうか。

 

「安心・安全の理由」というページを見ても、国土交通省の通達に沿った運営を行っているそうですが、具体的にどこがどうだという記載もなく、道路運送法78条に定める登録または許可を要しないという“主張”のみで、それが法令に則ったサービスであると、どうして主張出来るのでしょうか?

安全であるならば、どういう配慮をしているから安全ですというならば理解出来ますが、「登録または許可を要しない」ことは、有体に言えば「法の抜け穴」の訳で、それを堂々と「法令に沿ったサービス」と言ってしまう傲慢さに呆れてしまいました。

 

また、秩序あるコミュニティ形成の仕組みを用意しているそうですが、ドライバーの「厳正な審査基準」にも具体的記載がありません。せめて運転歴5年以上無事故無違反とか、そんなことも書けないのでしょうか?

それと併せて記載されている相互評価ですが、これは謝礼の支払い行動にも左右されそうな内容です。運送の対価は求めず謝礼のみとのことですが、謝礼の少ない利用者(このサイトでは“ライダー”というようです)はドライバー側から依頼を拒否することも可能になることですので、この項目一つだけでも、「それは謝礼じゃないだろう?」とツッコむことの出来る仕組みでは、無いですか?

 

この事業を国土交通省が黙認し進めようとしている理由は分かりませんが、(はっきり言わせてもらえば、この企業の関係者が国交省の役人と縁戚関係にあるとか、もしくはこの企業に出資した人物や団体が国交省と関係があるとか、そんなことを疑いたくなります)ライドシェアを認めている国や地域の現状がどうなっているのか、それをまず知ることが、必要ではないですか?

 

www.forumtsl.org

この方に言わせれば、「日本は遅れていておかしな国」だそうですが、このニューヨークの現状を見ても、本当にそう言えるのでしょうか?

はっきり言ってライドシェアは失敗ですよ。社会の秩序を乱し安全を破壊することだと、思うのです。本当に無料で空いている自家用車の座席を社会で共有出来るなら良いでしょうが、現実はそれを「カネに変えよう」とする連中の思惑ばかりが跋扈しますから、最終的に割を食うのは利用者になってしまう結果が、見えてしまうのです。

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きせき。

思い起こしてみると、私の成人してからの歩みというのは、ひたすら「暖かい家庭」を求めていたんだろうな・・・とここ数年感じるようになりました。

 

父親の仕事の関係で、慣れれば遠くの土地へ転校を繰り返し、そこから逃れるために父には単身赴任をしてもらい千葉へ定住したものの、単身赴任で家の主がいない生活と言うのは、やはりどこか寂しく、その上に降りかかった家庭のトラブルで単身赴任解消後の冷え切った家庭環境を経験して来た私は、無意識のうちに理想の家族像を自分で作り上げ、それを手に入れたくて無理ばかりして来たように、思います。

 

どこかで、甘いんでしょうね。50代も後半になろうと言う今でも、それは嫌だとか、ストップかかけられず、自分の近しい人に希望されたことを受け入れては、悪いほうの選択ばかりをしてしまい、失敗を繰り返しています。今回は仕事の選択ですね。本当の私の想いは、老後で描いていた夢を変えてまでUターンはしたくはなかったのですが。止めれば良いのに進んでしまって、また経済的な損失を大きく蒙った上で、再出発を余儀なくされています。

 

それは自業自得でどうでも良いことですが、今の私の望みは、何とか自分の息子には、共に信頼して歩いて行ける人と巡り合って暮らして欲しいと、いう事しかありません。

 

早く結婚して孫の顔が見たいとかいうものではありません。本当に信頼出来る人と、息子を信じて寄り添ってくれる人と巡り合って欲しい。ただ、それだけです。

 

そんな中で、こんな動画を目にしました。

 

youtu.be

これはゲームメーカー作成の、いわゆるプロモーション活動の一部なのでしょうが、題材は実話をもとにしたもの。
鉄拳さんのいわゆる「パラパラ漫画」のシンプルさが余計にストーリーの純粋さを引き立ててくれていますが、転勤族がゲームをきっかけに一人の女性と出会い共に暮らすまでの話を観ていて、何故か私の頭は、息子のことでいっぱいになってしまったのです。

 

どんなきっかけでも良いから、信じて寄り添ってくれる人と、出会って欲しい。

出来れば、私の命の尽きる前に。

そうなってくれれば、私は思い残すことはありません。

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トヨタ。

2018年1月27日更新:さすがと言うか、あっという間に「盗用多」では引っ掛かりもしなくなりました。
試しにエントリータイトルを変更してみます。

2017年12月12日更新:

ちょっと前まで「盗用多」で検索して来られる方が多かった記事ですが、現在ではGoogleYahoo!共にまったく検索結果に表示されなくなりました。

検索エンジンの対策対象にされたようなので、記事掲載日とURLを変更してみます。

 

とても中国や韓国のメーカーを笑えない、大・コピー帝国「トヨタ」。
エントリータイトルを「盗用多(笑)」とさせていただきましたが、その悪行三昧(笑)をここに晒してしまおうと、思います。

ざっと、画像を集めてみましたので、ご覧下さい。

まずは手始めに・・・

ポルテ
発売 2007年7月

f:id:makin2015:20171105022736j:plain

(引用:トヨタホームページhttp://toyota.jp/porte/index.htmlより)

両側もとい、片側スライドドアの小型車・ポルテですが、どっかで見たことあるデザイン&アイディアですね。とてもトヨタのオリジナルとは思えません。

これの元ネタは、これでしょう。

プジョー 1007

デビュー 2002年パリ モーターショー
発売 2004年

f:id:makin2015:20171105022814j:plain

(引用:http://www.carview.co.jp/road_impression/2006/peugeot_1007/

いかがですが?そっくりそのまま、しかもポルテのデビュー時期を見ると、言い訳は難しいように思います。


お次はこれもトヨタが革命的なクルマを出した・・・と、当時メディアでもてはやされました。しかも相当のヒット車になりましたね。

まずは、元ネタをご紹介。
ルノー エスパス
デビュー 1984年
(写真は2代目エスパス・1991年デビュー)
(引用:http://kuruma-ex.jp/usedcar/detail/CU0003079204

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さあ、トヨタの革命的なクルマ、デビューです!6年ほど遅いですけど(笑)何気にイメージカラーまで一緒です。
エスティマ
発売 1990年5月

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手始めに二つご紹介しましたが、まだまだ、こんなものでは盗用多と呼ぶには手ぬるいです(笑)!


ちょっと前まで私の愛車だったセニックも、見事にコピられています。
ブログのネタにもしましたが(笑)
ルノー セニック(写真は元愛車のセニック号フェーズ2・2000年デビュー)
デビュー 1995年
フロントビュー

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リアビュー

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メガーヌスパシオ・・・じゃないです。実はカローラって言います。
カローラスパシオ
発売 1997年1月

フロントビュー

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リアビュー

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リアビューのレイアウトなんか、もうモロコピーですね。


お次に、これもデビュー当時は話題のクルマでしたね。こいつはクルマのデザインじゃなくて、エンブレムがコピー対象です。

プジョー
創立は現存する自動車メーカーとしては、メルセデスと並び世界最古参です。このブルーライオンを真似するなんてとんでもない。
しかし盗用多(笑)は大胆に一車種のエンブレムとして扱ってしまいます。

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もう、お分かりですね。これに化けました(笑)

ソアラ
発売 1981年
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%83%A8%E3%82%BF%E3%83%BB%E3%82%BD%E3%82%A2%E3%83%A9

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ウィキペディアではグリフォンをイメージしたデザインと言っていますが、とんでもない。
グリフォンだったら、頭は鳥(鷲・鷹)です。
このエンブレムの頭部はどう見ても猛獣系ですね。プジョーブルーライオンをコピーしたと、素直に言えば良いのに。。。わざとらしい「後付け」の羽根が、痛すぎます(笑)


お次は、派生車で全部パクっちゃえ!のコーナーです。
ルノー メガーヌ
写真の2代目は2002年デビュー

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ラクティス
2005年発売
元々、ファンカーゴというクルマがモデルチェンジを機に改名。このデザインを見た時、さすがに私は吹きました(笑)リアビューはメガーヌⅡの縮小版ですね。

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ラクティスの元ネタのファンカーゴそのものは、こいつのコピーです。カングーのコンセプト丸絞りで出来上がった、盗用多(笑)版のフレンチ・ビーグルです!(笑)

ルノー カングー
1997年デビュー

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ファンカーゴ
1999年発売

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ここまで似ていると怒るを通り越して失笑が出ます。フランス車が日本ではマイナーで、知らない人が多いからコピっちゃえ!と言うのであれば、消費者を舐め切ってますね。まあ、そういう体質の会社なのでしょう。
本当のクルマ好きはトヨタには乗らないというのは、自明の理です。
トヨタのクルマはどれを運転してちっとも楽しくないのは、多分作る人も作っていて楽しくないのでしょうね。

こんなデザインのコピーだって、今はネットで全部調べられます。
トヨタの派生車生産能力であれば、短期間でデザインコピーなんて容易いでしょう。金型だって下請叩けばすぐ調達出来ますし。

アメリカのGM亡き後、トヨタフォルクスワーゲンか、と言われていますが、フォルクスワーゲンに失礼です。
まずはコピーを止めて欲しいものです。

トヨタの闇

トヨタの闇

  • 作者: 渡邉 正裕
  • 出版社/メーカー: ビジネス社
  • 発売日: 2007/11/07
  • メディア: 単行本
 

 

 


想い。

このところ、テレビを熱心に観るという事もすっかり減ってしまって、それもやはり仕事の影響が多かったのですが、本当に久しぶりに続けて観てしまっているドラマがあります。

www.tbs.co.jp初回から14%以上と言う高視聴率ですので、同じような方も多くいらっしゃるのではないでしょうか?

 

原作者の池井戸潤さんの作品はこれまでもいくつかありましたが、そのすべてを私は観ていません(笑)テレビドラマどころじゃない生活が続いていたのもありますが、観たいというスイッチを入れてくれるきっかけも、無かったんですよね。

 

今回は何故「観てみよう」と思ったのか、やはり自分にも迷いが色々生じていたんでしょうね。一般的に言えば「負け組」になってしまった人達が、目標を一つにして、熱い想いで立ち向かっていく姿に心惹かれ、初回からストーリーに、そしてこの番組の制作スタッフの目指すものに共感して、日曜日の夜にはチャンネルを合わせるようになってしまいました。

 

以前にも同じ想いで番組を続けて観ていたことがあります。それは“平成ライダー”の初作品である「仮面ライダークウガ」でした。こちらは私のブログでも何回か取り上げさせていただいております。

 

仮面ライダークウガ。 - 幕張の風

自分。 - 幕張の風

 

仮面ライダーと池井戸作品ではまったく違う、と言われてしまうかも知れませんが、番組を作る側の心意気には、私は同じものを感じてしまったのです。

 

今回の「陸王」、現在番組ホームページ横に表示されている公式ツイッターで、こんなことが書いてありました。


「24日の最終回を見終わった後に、一歩踏み出してみようと思える、自分をほんの少しだけ変えてみようと思える、そんな気持ちになっていただければ嬉しいです!」

良質の作品って、観ていてストーリーや出演者への関心だけではなく、何か心に響いてくるものがあります。陸王でも、観る人に対しての応援メッセージ的な要素が随所に感じられ、またそれを制作スタッフも意識を共有して、しっかり視聴者に届けようという想いが伝わり、それが高視聴率へとつながっているのではないかな、と思いました。

 

以前の仮面ライダークウガの時に感じたのは、本当に強い「力」を持った時に人はどうすべきなのかを、番組のターゲットである子供たちにしっかり伝えようという心意気でした。単なる勧善懲悪のヒーローモノで済ませるのではなく、力をふるうことに抵抗を感じ悩む主人公、そんな気持ちの葛藤を描く子供向けの番組なんてこれまでなかったなと、私はクウガの制作スタッフの想いに強く共感してしまいました。人間に対して自ら望んで得た力をふるい無意味な殺戮を繰り返す集団に対し、同じ力を得たのにそれを人を守るために使う主人公・・・。力で押さえつければ良いという事ではなく、力を使う意味を間違わずにいることが大切なのだと、それを観ている子供たちに伝えることが出来る、良質の作品だと思うのです。

 

今回も、取り上げる題材も内容もまったく異なる番組ではありますが、制作スタッフの想いには、共通項を多く感じます。それぞれの仕事や立場、その中での思いや葛藤を通して、誰かの為になることを貫くことが、自分の想いを一番満たしてくれるはず・・・正しい正しくない、そして上手く行く行かないではなく、どんなときにも諦めずやり抜く想いの大切さを、忘れないようにしなくては。

 

陸王はあと3回で放送を終えてしまうそうですが、最後までしっかり、「想い」を感じて、自分の振り返りにもなればな、と思います。

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完了。

2015年から始めた、So-netブログからの移行作業。
一度、Livedoorブログへ移行してから、改めてはてなへの移行を行ったのですが、画像とリンクの移行が自動で出来ず、手作業となっておりました。

なんだかんだと、千以上もあるエントリーのチェックをしながらの、画像の貼り付け直しに加えて、時間を遡れば遡るほど、リンク切れが多くあったりで、その修正もしながらでは中々作業が進みませんでした。

 

2年近くかかっちゃったんですね。

ようやく、「仮ブログ」のLivedoorを削除出来ました。

元のSo-netブログを始めたのが2005年の8月でした。その頃から、今の私を見るとどんな感想がもらえるのでしょうか?

 

「進歩ねえなあ、50超えても」

 

なんて言われるのがオチかも知れませんね。

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無理、無駄、無益。

竹内まりやの「クワイエット・ライフ」が発表された頃、最初の妻と別れた。オープニングナンバーの「家に帰ろう」が、尋常じゃないくらい、心に痛かった。

 

初めての離婚、よもや離婚なんて、自分がするとは考えもしなかったから、その状況を自分のこととして考えることがなかなか出来なかった。

 

両親の不仲を、高校時代から見てきた。弟には普通の生活をさせたくて、母に打ち明けられた「事実」は自分の心の奥底に仕舞い込んだ。
父が家庭に殆どお金を入れなくなり、家族らしいことが出来なくなって来たけど、自分のバイト代で母の誕生日や弟の誕生日に、プレゼントを贈ったりもした。

 

そんな父を反面教師として、自分は妻になる女性に、希望することは何でもしよう・・・そう考え実行したから、若くして二世帯住宅を建て義理の両親との同居も受け入れた。

しかし、世の中は優しくすればそれに応えてくれる人ばかりではないことを、これから何度も思い知る事になるとは、28歳の私には想像もつかなかった。

 

最初の妻は、私と別々に暮らし始めて、ようやく私の辛さに気づいてくれた。


「何て思いやりのないことをあなたにしてきたの」


そう詫びてくれたけれど、私の負った痛手は精神面であまりに大き過ぎて、向精神薬が手放せないレベルになってしまっていた。


別れて初めて気づく・・・と言うのは、やはり相手が自分の思い通りになるという慢心からくるのだろうか?

 

どんなに、「これはこの人の為なんだ」と自分を抑えていても、それを感謝して受け入れるまでとは言わないが、それを気づくことすら出来ない人に対して続けることは、抑える側の単なる自己満足の自傷行為に過ぎない。

 

これは結婚に限らないかも知れない。

仕事における人間関係でも、同性同士の友人関係でも同じだろう。

まずはコミュニケーション。相手を大切に思い、力を貸したいと思うなら、まずは話し合いから。
通じないなら、手を付けるべきじゃない。

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ずっと

当たり前だった 目に映る景色

崩れ落ちた 積み上げたはずの石に

繰り返した躓きの 償いは重く

取り戻せない暮らしに 焦る日々

でもそれは前触れもなくやって来た

巻き込まれた 嵐の終わりは突然に

 

何気ない いつもの道で
感じた心の距離

夢見てた未来は遠く

闘いの日々に埋もれて

 

目に映る景色がふいに 滲んできた朝日に

ただいま を言おう

僕を待って居たのは 昔繰り返したデッサンとは違う

柔らかく包む 暖かな日差し

寄り添ってくれるぬくもりがあるからきっと

待ち侘びた日々が そこにある

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無情。

私の、仕事上のキャリアの最初は、貸金業協会でした。金融110番の主担当で、1980年代後半のバブル前夜、改正貸金業法金利が移行措置の54.75%だった頃。私はその後協会の指定個人信用情報機関へ転籍することになりますが、金融110番での債務整理を行った方は4年間で300人ほど。

その中の一人に、30代前半の女性がいました。
協会で債務整理を行った条件で返済を始めて2年目に入り、それまでは約束の入金をしっかりなさっていただけでしたが、突然協会の事務所へいらっしゃいました。

なんでも、債務整理で生活が元に戻り、心にゆとりが出来たことでお付き合いを始めた男性からプロポーズされたとのこと。この女性は正直に協会での債務整理を男性に伝えたところ、「俺が全部払ってやる」とのことで、途中一括返済のご相談に来られたのです。

残債が多ければ一括弁済で再度業者側と減額交渉も行うことが出来るのですが(この交渉は貸金業の実務を知らない弁護士には絶対出来ません)、この女性は「もう、充分良くしていただいたので、減額は要りません」とのことで、現在の残金全額で一括完済をなさいました。
協会事務所からお帰りになるとき、「本当にありがとう。こちらでお世話になっていなければ、こんなに嬉しいことが起きることはなかったと思います。また遊びに来ても良いですか?」と言って、お別れをしたのです。輝くような笑顔を残して。

まさか、それが最後になるとは、思いもしませんでしたが。

それから3か月ほどしたある日、新聞の小さな記事を見て、私は絶句しました。その女性の名前が、「交通事故で死亡」の記事と共に、載っていたのです。


私は、いったい何の為に、彼女の人生に関わったのか?これで本当に彼女は良かったのだろうか?色々なことを考えました。そして人生はこれほどまでに無情なものなのかと、大声で叫びたくなるほど、心の痛む出来事でした。

今では、テレビでも「借金問題、過払い返還」なんて司法書士風情がCMを流す時代。直接会って相談して解決することもなく、電話一本で条件に合えば本来は有効な支払済みの金利が返ってくる魔法で、誰にも感謝の気持ちなんて、持てない世の中になってしまいました。

きっとそんな過払い返還なんて、この女性なら絶対に考えなかったでしょう。それでも、そんな方がどうしてこんなに早く、この世を去らなければならないのか?

私に、まだ現世で出来るのことはあるのでしょうか?しっかり見つめ直してみなければなりません。いつ何時、どんな理由でこの世を去ることになるか、分かりませんから。精一杯のことを、したいと思います。

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支え。

タクシーの仕事をしながら、空車の時にはFMラジオを聴いているのですが、その中で現役の高校3年生が、両親の離婚に戸惑い進学を諦め、それでも自分の夢を追いたいのに現状に流されている自分が恥ずかしい・・・と言った内容の、電話相談を取り上げていたものを耳にしました。
この子は女性ですが、自立し生活費も自分でまかないながら、高校卒業後は自分の夢を追いたいと。
その姿に、私が大学生時代、学費と生活費に追われて中退してしまった過去が被り、思い出されてしまいました。でも、この女性と比べれば、タイミングは楽だったかも知れません。

学費を払ったとは言っても、私は大学入学時には親に入学金を払ってもらっています。入学してから家庭環境が激変してしまいました。両親の不仲(有体に言えば、父親が不貞をした上にお金を家に入れなくなってしまっていました)とそれを原因とした母の情緒不安定で、私は突然降りかかった生活費と学費の負担でアルバイトに追われ、元々それほど興味の持てなかった大学の授業に興味を完全に失うまでに、さほど時間はかかりませんでした。

すさんだ自宅へ帰るのも辛く、このラジオの女性が耐えかねてラジオで電話相談したものを、高々19歳の私がどうやって精神状態を維持していたのかなと、ふと考えましたら、これまでは辛さからでしょうか、自分の当時の記憶を完全に消し去っていたものが、何故かこの時すーっと思い出されました。

大学入学後しばらくしてから交際を始めた女性に、私は完全に精神的に依存していたのです。「帰りたくない」とこぼすと彼女は「あなたのお母さんには、今あなたが必要なの。帰って支えてあげて」と、諭してくれることも度々。

でも、私が我がままを言って彼女を困らせることの方が、多かった。彼女もまだ大学生。学校もある家にも帰らなければならない。予定を曲げても私と一緒に居てくれと、無理なお願いばかりしていました。その結果彼女も負担に耐えかねてしまって、別れることになってしまいました。私はまだまだ子供だったので、自立したお付き合いが出来ず、本当に彼女には迷惑をかけてしまいました。もしどこかで会うことが出来たら、感謝の気持ちだけでなく、謝りたい気持ちでいっぱいです。

この苦しかった時に私を支えてくれた人がもう一人。昨年4月に亡くなった伯父です。両親の不仲で収拾がつかなくなり、困り果てて真っ先に相談したのが、伯父でした。伯父は明番にも関わらず、能登から千葉まで飛んで来てくれました。

「お前らいい大人二人がしっかりせんもんやから、子供がこんなにしっかりしてしもうてて・・・。恥ずかしいと思え!」と。両親をいさめる伯父の言葉を聞きながら、私は本当に救われた思いがしました。

本当に追い込まれてしまった時には、必ず支えてくれる人がいました。今もそうでしょう。扱いの難しい、お金のかかる大学生を抱えた私の所に来てくれて、寄り添ってくれる妻がいます。焦りのあまり事業を失敗し、そこから脱しようとあがけばあがくほど落ちてしまって、自己破産まで追い込まれてしまいましたが、それでも離れずに居てくれます。

 

日々の生活に埋没しているつもりはないものの、やはり一度レールから外れた生活を立て直すのは容易ではありません。
一般的な判例とはかけ離れた不当な裁判の結果で負わされた借財に加え、そこから焦って早く脱しようとした結果、更に悪い結果を招いてしまい・・・。

タクシードライバーとして当面の生活の糧を得ながら、息子の学費負担に追われていますが、これもやはりお金に苦労して中退してしまった、自分の悔しい思いを息子にはさせたくないが為。


若い頃から睡眠時間も短く、身体を酷使して来ましたので今では障害のある左腕だけでなく、右腕も肩・肘・手首を痛め、仕事だけでなく日常生活にも支障が出て来ました。心臓にも肺にも、今は治まっていますが持病を抱えています。

それでも命まで取られた訳ではありません。今、自分が出来ること・可能なことに集中して、必ずこの苦しい状況は終わると信じて進みたいと思います。
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心機一転。

個人的に、2008年から続いていた数々のトラブル。まるでサイコパスの前妻からの離婚裁判時に相手方の代理人だった弁護士への懲戒請求も、互助組織としか思えない弁護士会には自浄作用などあるはずはなく、当然のように棄却されてしまいました。

裁判時の違法証拠提出なども併せて、民事での訴訟へ移行するつもりでおりましたが、現在の私の状況と、将来に残された時間を考え、すべてを止めることとしました。

過去に拘泥するよりも、これからの家族との時間を優先したいのです。

息子も、これから将来を決める就職活動へと入ります。私も、現在の妻との今後の生活計画をしっかり組み立てる必要があります。過去のことに拘泥して時間やエネルギーを浪費するよりも、新たに何かを生み出す努力をする方が、必要だと気付いたのです。

私が現在生業としているタクシードライバーだけではなく、他にも私に出来ることを探し、それに集中します。

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